三十七.
十四夜の月夜の演奏は、切なく夜空に吸い込まれていった。
演奏を終えた直後、楓はえも言われぬ虚しさに襲われた。目が合った左衛門督は優しく微笑んでくれたというのに、笑えない楓は思わず視線をそらしてしまった。
気を抜いたら、涙が溢れそうだった。
(やっぱり、違う……)
あの、夢色に染まるような心地がしたあの夜とは、まるで違った。
「……悪かったな、あんまり上手くなくて。どっちかというと、俺は琵琶の方が得意なんだ」
楓は首を横に振った。左衛門督の演奏が悪いわけでは無い。左衛門督の演奏は基本に忠実で、楓の琴の音ともぴったり合い、見事だった。……ただ、違うのだ。
「……楓?」
顔を上げない楓を不審に思ったのか、左衛門督は膝を付いて楓の顔を覗き込んだ。
「……」
「……お前……。何がそんなに悲しいんだ。家に帰りたいか」
また、首を振った。
(……帰りたいけど、そうじゃない……)
戻りたい訳ではない。ただ、今は……会いたい人がいる。
「……じゃあ、なんだ……」
左衛門督は、楓の後ろ頭に手を伸ばし、何度も髪を撫でてくれた。
「……ごめんね……。兄上」
「……急な事ばかりで戸惑ってるのかもしれんが、元気を出せ。明日は十五夜だ、今日より美味い菓子を持って来てやるよ」
「……!」
――十五夜には、お菓子を食べる約束です――
心臓がずきりと痛む。
(もし、もし明日、訪ねて来てくれたとしても……私は……)
――会っては、いけない。
「……兄上。……お菓子……、……楽しみにしてる……」
「ああ」
兄はぽんぽん、と楓の頭を撫でて、立ち上がった。
「もう遅い。そろそろ休めよ。……近くに、居るから」
「……うん……」
もう一度頭を撫でて立ち去ろうとして、兄は足を止めた。
「楓」
「何?」
兄は、何か迷っているような表情だった。
「……いや……。なんでもない。おやすみ」
「? うん、おやすみ……」
翌日も、いくらか風は吹いていたが、綺麗に晴れた空は高かった。
今日も朝からお妃教育を受けさせられそうになって、楓はとうとう仮病を使った。熱も何も無かったが、苦しいから少し一人で寝かせて、と言ったのだ。
直ぐに薬師(くすし:医者)と祈祷師が呼ばれたのには驚いた。薬師は脈やら何やら取って、苦い飲み薬を置いて帰っていった。祈祷師は聴くだけで滅入るような呪(しゅ:お経)を半時も唱えていった。
その後も、良いと言うのに女房達が付ききりで看病してくれ、ようやく望みどおりに解放されたのは申の刻(午後四時)を過ぎた頃だった。
(そっとして置いて欲しかっただけなのに)
つくづく失敗だったと後悔する。そろそろ、参内から帰った兄が顔を見せに来る頃だ。
今日は、満月。夜が近づくにつれ、だんだんと強く風が吹き付けてくる。
「十五夜か……」
寝かされたままの布団の中で、楓はポツリと呟いた。
(……寝ちゃおう)
早く今夜をやり過ごしてしまいたかった。お菓子を用意してくれると言った兄には悪いけれど、今日は病気だと言ってあるし、無理に起こしたりはしないだろう。
(中将さまも、きっと……)
この部屋にまで来る事は無い。部屋の周りには侍もいるし、兄も宿直している。もう、会うことはないのだ。
楓は頭まで布団を引き被った。風の唸る声が、やけに耳に付いた。
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