三十八.
梨壺に住まう春宮の元、内大臣と右大臣、二人の大臣が訪れていた。頭の中将・幸宗と左衛門督も、その後ろに控えている。
(何が悲しくて好きな姫の結婚話を黙って聞いていなければならないんだ……!)
しかし実際幸宗は、自ら二人の後に付いて来たのだった。万が一にも姫の入内話が進んでしまわないかと、気が気ではないのだ。
とりあえず今日のところも春宮は頑なに入内話を拒否していて、密かに幸宗は胸を撫で下ろしていた。
「いい加減にしてくれ!」
怒鳴りつけた春宮は今にも御簾の奥から飛び出して来そうだった。
「俺はもう誰とも結婚しない!! 何度も言っているだろう! こんな風に俺との結婚話を持ち上げられたら、他の貴族は姫君達に求婚しづらくなる。みすみす自分のとこの姫を不幸にする気か!?」
「いやぁ、しかしウチの三の姫は気立てが良くてですねぇ、必ず春宮のお気に召すと、確信しておるのですよ」
右大臣は春宮の怒りも何のその、にこにこしながら姫を売り込んでいる。内大臣は右大臣を一瞥して、そっとため息をついた。
「……家の姫は、春宮の元へ嫁げなければ……出家したいと言っております」
(な……っ!?)
幸宗は手にしていた扇を取り落とした。一同もぎょっとして内大臣を見つめる。
「ち、父上……! そ、それは、あんまりな……」
左衛門督がたまらず、といった風情で口を挟んだ。
「控えていろ、秀頼」
小声だが鋭い声で内大臣が制す。
姫の意思で無い事は明らかだ。……春宮が首を縦に振らなければ、姫を出家させると、……これは内大臣の意思だ。
御簾の内で春宮が舌打ちするのが聞こえた。
「内大臣……会った事も無いお前の姫に、そんな覚悟、ある訳ないだろ……」
「いえ……家の姫は一途な性格でして。一度こうと決めたら貫こうとするのです」
「お前なぁ……」
「内大臣殿、それはいくらなんでも言い過ぎですよ。春宮も困ってるじゃないですか、無茶な事言いなさんな」
右大臣は笑顔を崩さずに内大臣をなだめようとしている。
「いやいや、うちの姫は、本気ですよ」
しかし内大臣も笑顔で返す。
幸宗は怒りで震える手で扇を握り締め、なんとか耐えていた。春宮の深いため息が聞こえる。
「……はぁ……、あんまり大っぴらに言うなよ、そういう事を。……姫が不幸になるだけだ。……俺は結婚しないんだから」
「……しかし……姫の方が出家したいと申しているのです。姫の一途な気持ちを、私に止める事はかないませんね」
「お前、いい加減に……」
春宮が呆れ声で言いかけたとき。
――バキッ
幸宗の手にしていた扇がとうとう、折れた。皆の注目が幸宗に集まり、丁度良いとばかり幸宗は立ち上がった。
「……内大臣殿」
「どうされた? 頭の中将殿」
「貴方は私の気持ちをご存知のはず」
「……さて。春宮の御前で、耳を煩わせるような話ならば避けて頂きたいのだが」
内大臣の目が鋭く細められた。しかし幸宗は止まれなかった。
「……ええ。御前だからこそ、聞いていただきたいのです。私は今、ただ一人の姫に恋をしているのです」
「……そのような話」
「貴方の姫です、内大臣殿」
「……!」
沈黙が流れた。
内大臣の目はますます鋭く細められ、左衛門督はぎょっと青ざめた顔でこちらを見上げている。御簾の内の春宮も驚いたようにぽかんとして、右大臣は笑顔のままだが意外だったようで、楽しそうに様子を伺っている。
春宮が口を開いた。
「へぇ……、それは、初耳だな頭の中将。遊び人のお前が、ここ最近は大人しくしていてどうしたのかと宮中でも噂だったが。……内大臣の姫のせいなのか?」
「ええ。……他の姫など、見えなくなってしまいました」
「ほぉ」
興味深そうに春宮が頷くと、内大臣が苦々しげに口を開いた。
「頭の中将。戯言は……止めた方が御身のためですよ」
春宮の元へと話が上がっている姫に恋慕するなど、春宮への反意ありと取られてもおかしくは無い行為である。しかし幸宗はそれでも構わないと意を決していた。どうせ出世など、あの姫一人と決めたときから諦めていたのだ。
「……お咎めは覚悟の上です」
「咎める事など無いぞ、頭の中将。俺にその気はないんだからな。いい話じゃないか内大臣、考えてやれよ」
春宮は楽しそうに声を弾ませている。
「……!」
内大臣は忌々しげに幸宗を凝視した。
「戯言です。……聞き苦しい、止めて頂けるかな、頭の中将殿」
冷たい視線を逸らさずに、幸宗は正面から受け止める。こればかりはどうあっても、退けない。
右大臣が楽しげに内大臣の肩を叩いた。
「ほっほ、内大臣殿。頭の中将といえば、貴方のご子息と並んで都一の婿がねじゃないですか。春宮もああ仰ってるし、悪い話じゃないんじゃないですかねぇ」
「右大臣殿……」
内大臣は掛けられた手を払うように立ち上がった。
「話になりませんな。……失礼いたします」
内大臣は足早に去って行き、左衛門督も後に続いて退がっていった。幸宗は膝を折って頭を下げた。
「……失礼いたしました」
甥っ子とはいえ仮にも春宮の御前で働いた無礼は問われても仕方が無い。
「いいさ。面白いもんが見れたからな。ま、せいぜい頑張ってくれよ。こう毎日迫られたんじゃ、うるさくてかなわない」
春宮は暗に右大臣にも嫌味を言って、退るよう促した。
御前を下がると、幸宗は足早に車へ向かった。
「今日も遅かったですねぇ」
数人の従者と共に吉政が出迎えてくれる。二日程前に負った傷は当然まだ癒えて居らず、袖から覗く白い布が痛々しい。
「悪いな。他の者を連れて来れば良かった」
「いえ、大丈夫ですよ、かすり傷ですから」
「……八重の文は?」
心得顔で吉政が差し出した文を受け取り、幸宗はうなずいた。
「よし、お前も乗れ、吉政。二条の内大臣邸へ向かうぞ」
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