三十九.
二条の内大臣邸。幸宗は堂々と表門をくぐり、左衛門督を呼びつけた。通された寝殿で女房にもてなされつつ待っていると、左衛門督は直ぐに呆れ顔で姿を現した。
「……頭の中将……。あの後でよく訪ねて来れるな」
左衛門督は座りもせず、ため息混じりに言って幸宗を見下ろしている。
「この家は、忍んで来たら斬られそうなのでね」
幸宗は笑いながら左衛門督を見上げた。
「……ったく。何の用だよ」
「君の妹姫に会いたいんですが」
「駄目だ」
「でしょうね。……では先日の文は、渡して頂けましたか?」
「俺は渡さんと言ったはずだが」
幸宗はわざとらしくため息をついた。
「やはり……。仕方ありませんね、では、もうこの話は止めましょう」
「?」
左衛門督は訝しげに首を捻った。他に何の用があるのか、と言いたげだ。
「今日は、君と遊ぼうと思って来たんですよ、左衛門督。今夜は十五夜です。本当は君の妹姫と一緒に月を眺めたかったのですが……今日のところは君で我慢します。久しぶりに一献付き合ってください」
笑顔を向けると、左衛門督はこめかみを押さえて肩を怒らせた。
「中将……。お前、良く平気な顔で遊びに来たなどと言えるな」
「? 私達は良い友人同士だと思っていましたが。姫の一件さえなければ何もいがみあう様な事もないでしょう。以前から遊んではいたのだし」
「その一件が重要なんだろ! お前二日前にものも言わずに俺を殴ったばかりじゃないか」
「ああ……それなら私も殴り返されたし、君だってあいこだと言ったじゃないですか」
左衛門督の怒りをさらりと受け流して、幸宗は笑顔を向ける。
「まだ怒ってるなら謝りますけど」
左衛門督と以前から友人同士なのは本当だ。今は姫を挟んで敵対しているような立場に居るが、彼は内大臣とは、違う。左衛門督にはまだ付け入る隙がある……と幸宗は踏んでいた。
「ったく自分勝手な奴だな、お前は。……帰れって言ったら……」
「帰りませんよ」
「……」
左衛門督は舌打ちしてくるりと背中を向け、首だけ振り返った。
「来いよ。言っとくけど、一杯だけだぞ」
「では、日が変わる前には帰ります」
幸宗は侍っていた女房に「ありがとう」と告げて、上機嫌に立ち上がった。
風が唸り声を上げている。左衛門督の部屋で人払いもして二人きり、久しぶりの酒だった。
「大体、中将のやる事は訳がわからん」
「そうですか、単純なものだと思いますが」
「……いつ、妹に目をつけたんだよ」
「二月ほど前です。……まさか君の妹とは思いもよりませんでしたが」
「じゃあいつも通り身分の低い……ただの国司の姪だと思って近づいたんだろ。違ったんだから、もう諦めたらどうだ」
「それがね、本当に柄にも無く本気になってしまって……、とても、諦め切れません」
「……」
左衛門督は不機嫌そうに酒を煽った。
「君はいつも実家に居ますけど。……幸せですか」
空けた杯を持ったまま、幸宗をじろりと睨む。左衛門督の妻は兵部卿の宮の大姫で、結婚してから三年程も経つはずだが、まだ子も無く、最近は通いも途絶えがちと噂だった。
「……俺の事は放っておけ」
「それもそうですね」
あまり機嫌を悪くされても困るので深くは追及しない。しかしそれが不服だったのか左衛門督は余計に不機嫌そうな表情をする。拗ねたような表情が……少し、姫に似ている気がした。
「今日は、妹と月を見る約束をしてる。……それ飲んだら、帰れよ」
そっぽを向いた左衛門督の顔色はもうだいぶ赤い。
(頃合か)
幸宗は懐に忍ばせていた文を取り出した。
「……これを」
「何だよ、また文か。俺は渡さないからな!」
「今日は私からの文じゃありませんよ。姫には腹心の女房が居たんですが、ご存じないですか」
「……五条の?」
「そう。姫は引き離されたと言って、泣いてましたよ。あの時」
「……」
「君の父君はまぁ……強引な人ですね」
左衛門督は顔をこちらへ向け、少し逡巡した後ひったくるようにして文を奪った。
「父上は、やり過ぎなんだよ。分かってるさ……」
言いながら立ち上がった。
「……渡してくる。ちょっと待っててくれ。……念のため言っとくけど、ここから動くなよ、中将」
「分かってます」
にっこり笑って、左衛門督を見送ると、渡殿に飛び出した足音はほとんど走るように遠ざかっていった。
「……随分と妹想いだな」
幸宗はぽつりと呟きつつ、懐から懐紙を取り出した。辺りを見回して人気が無いのを確認し、瓶子(へいし:とっくり)を覗き込む。
(少々悪い気もするが)
背に腹はかえられない。幸宗は懐紙に包んだ粉末をさらさらと瓶子に注ぎ込んだ。
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