四十.
しばらくして、左衛門督が戻ってきた。
「姫の様子は、どうでした?」
左衛門督は出て行ったときとは打って変わって、上機嫌に微笑んでいた。
「ああ。喜んでた」
すとんと円座に腰を下ろして空いた杯に酒を注ぐ。
「……お前の邸にいるんだって? 八重っていう女房は」
「ええ。少しでも姫の話が聞きたくて、強引に来てもらいました」
「……なんとかうちで雇えないかな。文であんなに喜ぶんだから、側に居ればだいぶ機嫌も良くなるだろう」
「君の父君が許せば、ね」
「……むぅ」
左衛門督は眉を寄せて口を尖らせた。
「父上は、一回言ったら絶対曲げないからなぁ……」
俺付きで雇うって事にしてごまかすか、などと、ぶつぶつ言いながら思案している。
「はは。内大臣殿も一度見ただけでしょうから、適当に言えばばれないんじゃないですか」
「だよなぁ、やっぱりそうするかな。中将は、それでもいいか?」
「ま、仕方ありませんね。そのほうが姫も、八重自身も嬉しいでしょうから」
「そうか!」
ぱっと満面の笑みを浮かべ、手にしていた杯を一息に空ける。
「お前もいい奴だよな、女が絡まなければ」
「女が絡んでもいい奴ですよ、私は」
お互い笑いあって、久しぶりに打ち解けた空気になる。
「よく言うよ。まぁ、雇ったところで妹が一緒に居られるのは後宮へ上がるまでだが……正直、あの春宮を口説くのは相当時間がかかるだろうから」
「折れないでしょうね、あの剣幕では。ですから私にも機はあると思っているのですけど」
「いやいや、それは父上が絶対何とかするだろうさ。本人が駄目なら帝を口説くか院にお縋りするか」
「それは困ったな」
「お前も早く他所の姫をあたれよ」
「冷たい人ですね、君は。私は他の姫の事など考えられないというのに」
左衛門督はとろんと重そうに下がり始めた瞼を持ち上げて、幸宗を睨んだ。
「その笑顔が信用できないんだよ。……中将、お前だって分かってんだろ。俺達みたいなのは……恋だ愛だって言ったって……所詮は……身分と、家柄が、全て……」
言いながら、段々と左衛門督の口調が淀み始めた。重そうな瞼は今にも落ちかかっている。
「……いつまでも自分の気ままに……居られると思うな……」
「父上のような事を言わんで下さい。大体、君の妹姫なら不釣合いでも無いじゃないですか」
「……ん……、ああ、妹は駄目だ……くそ、急に眠く……」
「飲みすぎたんでしょう。私の事は気にせず、少し休んではどうです?」
「……すまんな中将、じゃあ、少し……だ……け」
言った瞬間にはもう、倒れ込むように身体が傾いていた。慌てて抱きとめ様子を伺うと、既に安らかな寝息を立てている。
「左衛門督……」
呼びかけても返事は無く、揺すっても反応は無い。
(なかなかの効きめだな)
幸宗は薬の効き目に満足してにんまり笑い、左衛門督の直衣の組紐を探し出すと、一気に引いた。二藍(赤紫)の直衣がばらりと崩れる。そのまま袍を脱がせて左衛門督を横たえさせると、自らも着ていた青の袍を脱いだ。禁色の青は蔵人の頭の証でもある。
幸宗は普段は一人で着ることも無い青の袍を何とか左衛門督に着せて、自分は二藍の袍を着込んだ。
左衛門督と幸宗は背格好も似ている。焚き染められた香も左衛門督のものだ。夜ともなれば、直ぐには見分けもつかないだろう。
左衛門督の顔を内に向けて脇息にもたれさせ、うたた寝をしているように見せかけた。
「よし」
これで準備は整った。幸宗は部屋を後にしようとしてふと振り返り、
「すまんな」
と囁いた。
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