四十一.



 扇で顔を半分隠して、あとは堂々と渡殿を渡って行ったが、誰も止める者は居なかった。通常家人の方から目を合わせて来る事はないので当然かもしれないが、何人かすれ違った者もみな頭を垂れるだけで、拍子抜けするほどあっさりと、姫の部屋へ辿り着く。

「兄上?」

 懐かしい声が聞こえた。二日前に言葉を交わしたはずなのだが、その声は酷く懐かしく幸宗の胸に響いた。無言のまま姫の居る几帳の前まで歩み寄る。

「もう、中将さまは帰ったの?」

 まだ姫は気づいていない。思いがけず自分の事を呼ばれて、幸宗の頬に笑みが込み上げた。驚かせてやりたいが、それで悲鳴でもあげられたらたまらない。

「姫……」

 無難に囁いた。姫の動きがびくりとして止まる。幸宗はゆったりと笑って几帳のうちに滑り込み、姫の正面に膝を付いた。

「……お迎えに、あがりました」

 見開かれた姫の丸い目は、何度も瞬きを繰り返している。

「どうやって……それに、その香……その直衣は、兄上の……」

「ちょっと、ね」

「あ、兄上をどうしたの……?」

「大丈夫、左衛門督は無事ですよ、姫。今は詳しい説明をしている時間がありません。直ぐに、ここを出ましょう」

「え……っ」

 幸宗は姫の手を掴み、立ち上がってその手を引いた。

「さ、早く」

 しかし姫は立ち上がらない。座ったまま、顔を背けるようにして俯いている。

「姫……?」

「わたし……」

 幸宗は、姫の声を聞くのが急に怖くなった。あの時。姫を連れ去ろうとして、困った顔をされた、あの時の不安がふいに蘇る。

「早く……っ!」

 幸宗は姫の返事を待たずに強引に引き寄せ、抱え上げるようにして立ち上がらせた。

「……っ」

 驚きに大きく目を見開いた、姫の顔が目の前にある。……愛しいと思う。もうずっと手に入れたいと、焦がれていた。

「姫……!」

 しかし姫は眉をひそめ唇をかみ締めて、今にも泣きだしそうな顔をしていた。

「嫌ですか? 私と一緒に行くのは、嫌ですか……?」

 姫は眉をひそめたまま、潤んだ目で幸宗を見つめている。

「……」

 しかしその唇はかみ締められたまま開かない。

「どうして答えてくれないのです、私はもう」

 胸が張り裂けてしまいそうだった。

「お願いです。……好きだと、言ってください。姫」

 我ながら情けない台詞だと、思う。しかしもう、この苦しさに耐えられない。姫の唇が震えるようにして薄く開かれた。

「……中将さま、わたし……」

 じわりと姫の目に涙が盛り上がった。隠すように、姫は慌てて顔を背ける。

「わたし、……行けません! ここに、残ります。春宮の元に、入内します」

 心の臓を、射抜かれたようだ。衝撃で心が壊れてしまう。目の前の姫の姿もひび割れていくようで、手首を掴んでいた腕から力が抜けた。

「ごめんなさい、中将さま……せ、せっかく、来て……くれたのに」

 言いながら、姫はぼろりと涙を零した。

(なぜ。……泣くんだ……)

 春宮の元へ嫁ぐと言いながら、悲しげに涙を零している。しゃくりあげる姫の声が耳に届くと、幸宗の心の奥底にかっと火がともった。その火は瞬く間に燃え上がって、幸宗を突き動かす。

(渡さない……!)

 一度離しかけた手を再び強く掴み、強引に引き寄せる。よろめいてぶつかった姫の腰に手を回して掻き抱き、もう片方の手で頤(おとがい)を掴んだ。

 無理やり上向かされた姫の顔は驚きと悲しみが入り混じり、頬は涙で濡れている。

 ――愛しい、姫。

 想いのまま、幸宗は姫の唇に唇を落とした。



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