四十三.



 先日吉政が命懸けで忍んできてくれたお陰で、ある程度邸の造りは把握していた。楓の手を引いて渡殿を歩き、北西の対から北の対へ抜ける。ここから先は見張りも減って、使用人たちもある程度自由に出入りしているはずだった。

 楓はまだ酷く不安そうな顔をしていた。

「大丈夫ですよ。……できるだけ、堂々として下さい」

 小さく声をかけたが、楓の足取りはまだ不安げで落ち着かない。なるべく人気の少ない細殿を選んで北の対をすり抜け、雑舎の方にまで抜けて行った。さすがに何人かの使用人が不審げに振り返っている気配を感じる。普段、雑舎の方にまで左衛門督が、ましてや姫君が来るような事はないのだろう。

 幸宗は階(きざはし)を降りて庭へ出、楓を抱きかかえ上げた。ここから一気に北門を目指す。北門を抜けた先の角の路地に網代車を用意させてある。

 灯りも乏しく、草も深い裏庭を、幸宗は楓を抱いて足早に歩いた。人目を避けて竹林へ入り込んだが、幸いにも満月の明かりが差し込んで、足元はなんとか見えた。

「……とんだ月見になってしまいましたね」

 囁くと、楓が顔を上げる。

「家に帰ったら、月見をやり直しましょう。……お菓子を食べなければね」

 緊張をほぐすように少し笑って言ったのだが、楓の顔は酷く引きつっていて、とても緊張がほぐれるどころでは無かった。

「……あの、中将さま、わ、わたしやっぱり戻……」

「それ以上言うと、怒りますよ、姫」

「!」

「もう、諦めて下さい」

「だって……!」

 楓は半分泣き声だった。その声は幸宗の心を酷く傷つける。

「……も、戻らないと……」

 青ざめた顔にまた涙が浮かんでいる。楓の涙は幸宗の心を抉るようだった。

「……あと半刻ほどもすれば我が家に着きます。そうしたら、きっと貴女の心を、変えてみせる」

「違うの……中将さま……駄目なの……。やっぱり私、戻ります!」

 楓は腕から逃れようとして身をよじった。危うく楓の身体を落としてしまいそうになって、幸宗は慌てて足を止め、強く抱きとめる。

「危ない! 暴れないで」

「お、降ろして下さい!」

 楓の目は真剣だった。先ほどまではぼんやりと潤んだ瞳で幸宗を見つめていたというのに、今は同じように潤んではいても、険がこもった瞳だった。

「お願い……」

「……っ」

 幸宗は胸にじくじくとした痛みが走り、返事が出来ない。

 楓は、悲しげに表情を曇らせた。

「……中将さま、私を不幸にしたくないって……、言ったじゃない……」

 強い風が竹林を揺らし、怒っているかのようにざわざわと唸っていた。消え入りそうな楓の声が、いっそ掻き消えてしまえば良かったのに、と思う。

「……私といては、不幸になるという事ですか……」

 楓は俯いたまま答えない。

「春宮が、良いのですか」

「……そんなの……」

 それは当たり前のことかもしれない。いくら一流貴族とはいえ、春宮と自分とでは天と地ほどの開きがある。……しかし、それでも……手放したくない。

「……楓。貴女は私に名を教えてくれた。なぜ、教えたのです」

 この時代、女性が軽々しく名を明かさないのは常識であった。諱(いみな:本当の名前)を知る事はその女性を支配する事に繋がり、呪詛によって意のままに操ることも出来ると、当然のように信じられていたのである。つまり女性が名を明かすのは、親兄弟か、それ相応の相手のみ。

「いっそ……貴女を呪い(まじない)で縛り付けてしまいたい」

「……!」

 楓は非難するように幸宗を睨んだ。

「中将さま、言ってる事が、めちゃくちゃ……」

「……余裕が、無いんです、姫」

 幸宗は少し自嘲して笑った。

「少しでも私を、憐れと思うなら……」

 言いかけたとき、がさがさと草を踏む音が聞こえ、人の気配を感じた。何か探しているように、竹林の中をうろうろと歩き回っている。

(追っ手か……!)

 意外に早くばれてしまったな、などと考えている間にも、草を踏む音の数は増えていく。

「おーい! こっちの方はまだ探してないぞ! 松明を持って来い!」

 思いがけず近いところから声が届く。ぎょっとして見ると、長く伸びた人の影はすぐそこに迫っていた。風の音にかき消されて、気配に気づくのが遅れてしまったのだ。

「姫。話している時間がありません。……大人しくしていて下さいね!」

「あ……っ」

 楓をもう一度抱えなおし、幸宗は猛然と走り始めた。



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