四十四.
「居たぞ、あっちだ!」
少し走ると、すぐに後ろのほうで声が上がった。
楓を抱えて走る幸宗の足はやはりどうしても、遅い。
「まずいな……」
このままでは北門に辿り着く前に追いつかれてしまうだろう。
「ねぇ中将さま、降ろして! 一人でなら、逃げられるでしょう!?」
「一人で、逃げて……っ、どうするんですっ」
あがった息で答えると、すぐに竹林を抜けた。一気に視界が開けて狭い北門がもう目の前に見える。あともう五間(十メートル弱)ほどの、距離。
人気の無い門に向かって一気に駆け寄ろうとした、そのとき。
ひゅっ……っと、空を切る音がした。
北門の閂(かんぬき)のど真ん中に突き刺さった矢を見て幸宗は舌打ちした。
「しつこいですね、君も……」
振り返りもせずに言ったが、予想通りの声が答えを返してきた。
「いい加減にしろ、中将……」
楓は中将の肩越しに邸の方を振りかえった。
「兄上……!」
「上手くやったと思ったのに。……よく、目が覚めましたね」
そう言って、ため息をつきつつ振り返ると、左衛門督は弓を持った手をだらりと伸ばし、ぐったりと高欄(こうらん:廊下の手すり)にもたれ掛かっていた。
そこへ、先ほどの追っ手が駆けつけて来る。
「頭の中将殿! お待ちを!」
やっと追いついて幸宗を取り囲んだ男たちは三人。
「おい、もういい」
左衛門督が声をかけ手で制すと、男たちはばらばらとその場に跪いた。左衛門督はまだ高欄にもたれたまま、幸宗を睨んでいる。
「……見ろよ、このザマを」
「……?」
言われて目を凝らすと、自分が着せた青い直衣の色が酷く濃くなっている。月明かりのせいにしてもそれはおかしく、やけに重たそうに左衛門督の身に張り付いていた。
「どうしたんですか、それは」
「水ぶっ掛けられた」
「……!?」
「すぐ、父上が来るぞ。……えらい剣幕だ、くそ」
「……それはおかしいな……内大臣殿は宮中のはずではなかったか」
「……やっぱり、それもお前の仕業かよ」
幸宗は今日、宮中を退出する時に、春宮に頼み事をしていた。春宮は「頑張れよ」と言ってくれていたし、叔父と甥の気安さもある。駄目で元々と頼んだ願いを、あっさりと飲んでくれた。今夜、姫の事で大事な話があると言って、内大臣を呼び出して欲しい……と。春宮がそう持ちかければ、内大臣は絶対に飛んでいくはずだった。
「急に春宮に呼び出されるなんて、おかしいと思った……。最近は、父上の事を煙たく思われてるご様子だったからな。父上は最初からいぶかしんでたよ。だから直ぐに帰ってきたんだろ」
やはりあの内大臣は勘が良い。
「では、私は急いで去らねばなりませんね」
「ああ。妹は置いていけ」
「……」
左衛門督はまだ薬が抜けていないのだろう、酷く具合が悪そうに高欄にもたれたままである。が、その手はしっかりと弓を握っている。幸宗の周りには内大臣家の家人が三人。護衛用の侍ではなくただの使用人のようだ。今は跪いたままだが、左衛門督の指示が飛べばすぐに幸宗を取り押さえようとするだろう。……腕に楓を抱えた状態で、この場を乗り切れるか……。
腕の中の楓が身動きした。
「中将さま、降ろしてください。……私」
幸宗はとっさにその口を手の平で塞いだ。
「姫、少し……黙って」
「おい頭の中将、妹は嫌がってるだろ、放せ」
「……私は、姫に名を教えていただいている」
「なんだと……!」
左衛門督が楓の方に視線を移すと、楓はおずおずと頷いた。左衛門督の表情がどこか悔しげに歪む。
「……馬鹿な事を……!」
幸宗は左衛門督をじっと見据え、口を開いた。
「左衛門督、……見逃してはくれませんか」
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