四十五.



「なに……!?」

「後生です、左衛門督」

「あ、阿呆か……」

 呆れ返った左衛門督は口を閉じるのも忘れている。

「……姫の気持ちは私にある。お願いします」

 幸宗が真摯に言うと、左衛門督は高欄にもたれた身体を起こして幸宗を睨んだ。

「信じられるか……! いいか、たとえ春宮の事が無かったとしても、お前のような浮気な男に妹をやる気は無い!」

「言ったはずです、私にはもう、楓ただひとり」

「気安く呼ぶな! 俺は許さ……な……、は、はくしっ」

 左衛門督はぶるっと身を震わせて、腕をさすった。

「とにかく早く妹を置いて出て行け。俺は早く着替えたいんだ」

「どうしても……駄目ですか」

「なんども……」

 左衛門督が言いかけた時には、もう幸宗は走り出していた。急に走り出されて驚いたのか、楓は慌てて幸宗の袖にしがみつく。

「馬鹿が……! おい、取り押さえろ!」

 すぐに囲んでいた家人達が立ち上がり、幸宗を捕まえようと駆け出した。

 幸宗はとうとう楓を地に下ろした。

「姫、少し離れて」

 耳元に囁くと楓をそっと押し遣り、振り返り様、最初に追いついた家人のみぞおちを強く殴りつけた。

「ぐぅ……っ」

 一人がうずくまり、もう一人が驚いて立ち尽くす間に背後に回って今度は首筋に手刀を叩き込む。もうあと一人は慌てて踏みとどまって幸宗と距離を置いた。

「ち、中将さまっ!?」

 楓が悲鳴のような声を上げた。

「馬鹿が……!」

 左衛門督が高欄を飛び越えて庭を駆けてくる。その左手には、弓。右手は腰に下げた矢籠(しこ:矢を入れる籠)に伸びる。

「逃げましょう、姫も、走って」

 言いながら幸宗は姫の袿を素早く脱がせて目の前に立っている家人に投げつけた。

「さ、早く!」

 楓の手首を強引に掴んで引っ張る。

「中将さま……」

 また拒まれるのではないかと一瞬不安が過ぎったが、しかし楓は一緒に走ってくれた。すぐに辿り着いた北門で、閂を一気に引き抜く。

 閂が抜けたのと同時、矢が幸宗の腕を掠め、戸板に突き刺さった。

「く……!」

 腕から鮮血が飛び散って、ぢりぢりと熱を放つ。思わず腕を押さえ、がくりと膝を着いた。

「動くな中将!」

 もう左衛門督は次の矢をつがえていた。

「俺は今お前のせいで具合が悪い。……致命傷にはしたくないが、手元が狂う可能性は高いからな……動くなよ」

 言いながらじりじりと左衛門督は近づいてくる。

 もう扉は開け放たれていると言うのに……!

「中将さま!」

 楓が幸宗の前に飛び出して立ちはだかり、両手を広げた。

「……兄上やめて! 見逃して!!」

「何やってる! どけ!」

 左衛門督が激しく叫んだ。しかし楓はぶんぶんと首を振る。

「中将さま! 逃げてください……っ」

「貴女が一緒でなければ、意味がないと言ったでしょう。姫、危ないから、そこをどいて」

 幸宗はじくじくと痛みを訴える腕を抑え立ち上がり、楓の前に出ようとした。しかし楓は通せんぼをするように、広げた手を降ろさない。

「……じ、じゃあ……私も逃げますから……。私を盾にして……逃げましょう」

「……! 姫……!?」

 聞き違い出なければ、今、楓は確かに、逃げると言った。

「私も、行きます。だから……私の後ろから出ないで……!」

 切羽詰った声だった。

 歓喜が満ちて心が震える。楓は幸宗の身を案じている。案じる余り、一緒に行くと、言っているのだ。不謹慎とは思いつつ、幸宗はこみ上げる喜びを抑えきれない。

「楓……!」

 幸宗が呼ぶのと、左衛門督が呼んだ声が重なった。

「お前……正気か!」

 左衛門督はつがえていた弓を降ろして叫んだ。

「……」

 楓はこく、とうなずく。

「楓! こっちへ来い! 俺はもう矢を放たない。だからこっちへ来るんだ!」

 左衛門督が再び叫んだが、楓は首を横に振った。

「兄上……、見逃して……!」

「お前、……どういうつもりだ!?」

 楓はふっと振り返って幸宗を見つめ、切なげに瞳を揺らした。それからすぐに左衛門督の方に向き直る。

「……私……、中将さまが好きなの……!」



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