四十六.



 そのとき風が一瞬凪いで、まるで時が止まったかのように幸宗は感じた。それは、欲しくて欲しくてたまらなかった言葉。

「楓」

 呼ぶ声が、思わず震えた。楓は振り返らずに、腕を広げたまま一歩下った。

「早く、中将さま、行くんでしょ? 行かなきゃ……っ」

「待て!」

 左衛門督が叫んだ。まだ左手には弓を、右手には矢を握っている。

「本心か!? 楓!」

 楓は左衛門督をじっと見据えて、うなずいた。

「……っ」

 左衛門督は何か言いたそうに口を開き、直ぐにまた引き結んで首を振った。手に持った弓と矢を、地面へ叩きつける。

「頭の中将!」

「……」

 幸宗は楓を押し退けて前に出た。

「見逃してやる。……早く行け。俺の気が変わらんうちに」

「左衛門督……!」

 幸宗は感謝の念を込めて頭を沈め、楓の手をとった。楓が振り返って叫ぶ。

「兄上! ……ありがと……」

 左衛門督は顔を上げなかった。

「行きましょう」

 幸宗は楓の手を引いた。まだ不安そうに唇をかみ締めて、それでも楓はついてくる。 幸宗は感動を覚えながら楓の小さな冷たい手を握りしめて、北門をくぐった。

 しかし直ぐに幸宗は足を止めた。

「……くっ」

 大勢の侍が、待ち伏せていた。ざっと、十五・六人。そしてその中に一人、見覚えのある貴人が険しい顔で立っていた。

「頭の中将殿。これはどういうおつもりですかな」

「内大臣殿……」

 内大臣は前へ出て、ふっと皮肉な笑いを浮かべた。

「いまさら尋ねても仕方ないですな。……そこの門前での会話は全て聴かせて頂いた」

「……」

 楓は腰が抜けたように、へなへなとその場に座り込んだ。異変に気づいて後を追ってきた左衛門督も、内大臣の姿を見止め、青ざめて立ちつくす。

「父上……」

「秀頼。……楓の事はお前に任せていたはずだが」

「……」

 左衛門督は何も言い返せずに視線をそらした。

「それで良く衛門督の役目が務まるものだな」

「申し訳……ありません」

 視線を外したまま俯いて、握り締めた拳を震わせている。

 内大臣はすっと視線を移し、座り込んだ楓を見た。

「楓。……私の命令は絶対だと言ったはずだが」

 楓はびくりと身体を震わせて、両手を地に突いた。

「父上様、許してください。私、私はどうなっても良いですから、……中将さまと……伯父様には何もしないで……!」

 幸宗ははっと目を見張った。

 ああ、そうだったのか、と全て合点がいく。簡単な事だ、どうして今まで気づいてやれなかったのか。内大臣ならば楓の伯父である備前の守をどうにかすると言って脅すくらいの事、平気でやるだろう。だからこそ楓はああまで頑なに自分を拒んでいたのだ。

「お願いです! お願い……」

 楓はぽろぽろと涙を零しながら地べたにひれ伏した。内大臣はぴくりとも表情を崩さず冷酷な目でそれを眺めている。

 幸宗は楓の肩に手を掛けて身体を起こそうとした。

「姫! 備前の守は私が守ります、父左大臣に縋ってでも、守りましょう。だから顔を上げて……」

 しかし楓は額を擦るようにひれ伏したまま動こうとしない。

「内大臣殿」

 幸宗は内大臣の方を振り返って膝を折り、頭を垂れた。

「春宮へ差し上げようという姫に恋慕するなど、身の程をわきまえない行為と分かっています。まして今夜のようなやり方は許されるはずが無い事も。……しかし私は、どうしても姫を得たかったのです。姫を諦め切れない。……許しては頂けませんか」

「……」

 内大臣はゆっくりと歩を進め、幸宗の目の前で立ち止まった。

「……どうしても、楓が欲しいか……」

「はい。命に代えても」

 即座に答えると、頭上で内大臣がふっと息をつくのが聞こえた。

「……では、掛けて頂こうか。その命」



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