五十一.
「……なんだかちょっと緊張するな……」
幸宗は何度も直衣の裾を直して、牛車に乗り込んだ。
今日は本当に時間の流れが速く感じた。昨日までは遅々として進まず、早く早くと急いていたというのに。
「え……っ、緊張……ですか」
簾(すだれ)を下ろそうとしていた吉政が奇妙なものを見るような目で幸宗を見た。
「……なんだよ悪いか。……いくら俺でもこれだけ待った姫をいよいよ手に入れるとなれば、緊張くらいするさ」
「……はぁ」
今日はいよいよ結婚当日。日もとっぷりと暮れて、これから内大臣邸へ向かうところである。両家の親が認めた結婚とはいえ、初めの三日はこうして夜を縫って姫君の部屋へ忍んで行くのである。
「……じゃあ、まぁ、せいぜい落ち着いて、上手くやってください」
「……なんだ、その適当な言い方は」
「いまさら緊張すると言われても……」
確かに楓に出会うまでの幸宗は好き放題やっていて、初めての屋敷に忍び込むときでさえスリルを楽しむ事はあっても緊張などしなかった。むしろ吉政の方が心配して青ざめるような事の方が多かったのである。
「あのな。近頃の俺は大人しかっただろ。女の元へ通うの自体久しぶりなんだから」
「まぁ、それもそうですね」
幸宗は落ち着かず、暑くも無いのに扇でぱたぱたと風を送った。吉政はふっと微笑んだ。
「……でも本当に、良かったですね。こんなに真剣な幸宗様は初めて見ましたから。……おめでとうございます」
「……ああ。ありがとう……」
幸宗も笑って答えると、簾が下ろされた。
ほどなく内大臣邸に着き、先導の女房に案内されて楓の部屋を目指した。女房は部屋へ着く前に立ち止まり、「あちらです」と言って退がって行く。
(いよいよか……)
幸宗は心臓がうるさく高鳴るのを抑えるように大きく息を吸い込んだ。
落ち着かなければ。きっと楓の方がよっぽど緊張しているだろうから。幸宗はいつものように微笑を浮かべて、ゆっくりと楓の部屋の妻戸(つまど)を開けた。
部屋の奥に、楓の気配がする。細く削られた灯心の弱い明かりのせいで良くは見えないが、真っ白な単(ひとえ:一番下に着る着物。下着)がそこに浮かび上がっていた。
「姫……」
ささやいてみたが、返答はない。幸宗はもどかしくなって楓の前に歩み寄り膝を着いた。
「姫……?」
楓は脇息にもたれていて、顔を伏せたまま動かなかった。まさか泣いているのでは、と酷い不安にかられて楓の顔を覗き込む。
「……」
無防備な顔をして、楓は安らかに眠っていた。
新婚初夜で婿を迎えるというのに寝ている姫など何処に居るだろう。緊張していた自分が阿呆らしくなり、少しだけ腹立たしい。しかしあまりにあどけない寝顔が可愛らしく、なんだか笑いがこみ上げてしまって、とても怒る気にはならなかった。
くすくすと声を潜めて笑って、しかしさすがに起きて貰わなければ困るので、軽くゆすぶった。
「姫……。起きてください、ひ・め」
楓はぱちりと目を開けた。
がばっとすごい勢いで身体を起こして、目の前に居た幸宗と目が合うと、これ以上は開けないだろうという程大きく目を見開き、ざざざざざっと部屋の隅まで後ずさっていく。
「ひめ……?」
「あっあのっ、わ、わたし……っ、もももしかして、寝てました……っ?」
幸宗はくすくすと笑いながら、楓の側へいざり寄った。
「ええ、それは健やかに」
楓は単の袖を顔の前で交差して、半分涙声になる。
「ご、ごめ、ごめんなさいっ! わたし、あの、昨日から緊張しちゃって、眠れなくって、それで、それで……っ」
「怒ってませんよ」
噴出してしまいそうになるのをこらえながら、幸宗は楓の両の手を握って降ろした。
「ひ、ひやぁああ」
奇妙な叫び声をあげられて、幸宗はとうとう噴出してしまった。
「あはははは、姫、そんなに固くならないで」
「でで、でも……っ」
幸宗自身も緊張していたはずなのに、もうすっかりどこかへ吹っ飛んでしまった。くすくすとひとしきり笑ってから、幸宗は楓の姿をまじまじと見た。
薄闇に浮かび上がる白い単がまぶしい。袖から伸びる白い腕に、白い首筋。折れてしまいそうな細い腰。
「あ、あの、あんまり見ないで下さい。……わ、わたしだけ、こんな格好で……っ」
楓は単姿だが、幸宗は訪ねてきたばかりでまだ直衣を着ているのだ。
「なぜそんな事を言うんです。私はずっと、あなたを見ていたいのに」
「……っ」
楓は口をぱくぱくさせて、思い切りうつむいてしまった。
「顔を上げてください」
「……」
しかし楓は固まってしまったように動かない。幸宗は少しだけ意地悪をしたい気持ちになった。
「ひどいな。私はこうして会えるのを、ずっと心待ちにしていたというのに。姫はそうではないんですね」
「だ、だって、だって……」
「……私も単になれば顔を上げてくれますか?」
「えっ」
驚いた楓が顔を上げる。幸宗は意地悪く笑って、楓が見ている目の前で直衣を脱ぎはじめた。
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