六.



「やあ、姫。わしはもう三日後には備前へ帰る。伊予の介との結婚のこと、決めたかね。ん?」

 言いながら、備前の守が姫の前に腰を下ろす気配がした。

「伯父様、私、その話はこの間お断りしたじゃないですか!」

「しかし文は届いているだろう、彼は歌が上手いからな。返事くらい返したんだろうな?」

「……返しません」

 備前の守の深いため息が聞こえる。

「おまえもなぁ、もう十六だろう。いつまでもこの狭い屋敷に住まっている訳にもいくまい。そろそろ嫁に行く決心をしたらどうだ」

「私は一生結婚なんかしません! 前から言ってるじゃない、私、琴も歌も出来ないし……、貴族と結婚なんて出来ないって! ね、伯父様、私、こんな姫さま扱いされるような身じゃないでしょう? お願いだから、伯父様のうちで女房として使ってよ!」

 幸宗はぎょっとして息を呑んだ。

「……またそれか。それこそ絶対に、駄目だ。いいか、お前は姫だ。女房ではない。伊予の介が不満なら、それでいい。いずれはきちんとした相手をこの伯父が探してやる。……私もずっと京にいられればすぐにも良い縁を探してやるものを……」

「違うわよ、伯父様……。伊予の介がどうとかじゃないの。私は結婚もしないし、ただの人として暮らしたいんだってば……」

「わがままを言うな、お前は立派に貴族の姫。運命には逆らえんのだよ」

「……っ!」

 ばん、と床を叩く音がして、幸宗はまた驚く。

「そう怒るな、……わしにつてがあればなぁ……。宮仕えでもあれば、お前を女房として出しても良いのだが……」

「ば、馬鹿いわないでよ……っ、何が宮仕えよ、それこそ出来るわけないじゃない……」

 二人はその後もしばらく不毛な会話を続け、やがて諦めたのか備前の守はしぶしぶと帰って行った。



「ずいぶん、ご機嫌斜めですね、姫?」

「……聞いてらしたんでしょう? 中将さま」

「ええ」

 備前の守のお陰で几帳が一つに減ったところへ、幸宗はすとんと腰を下ろした。

「でしたら、話は早いと思うんですけど。……あの、申し訳ありませんけど、お帰り願えませんか」

「嫌です」

 幸宗はにっこりと笑った。几帳の向こう側、怒っているのか嘆いているのか、首を落として肩を震わせている気配がする。

「もーーっ、いい加減にして下さい!」

 どうやら怒っていたらしい。幸宗はくっくっと笑った。備前の守には悪いが、こんな姫君はこの京の都にはなかなかいない。

「ねぇ姫、なんで琴が出来ないとか嘘つくんです。結婚したくないからですか」

「嘘じゃありませんっ、本当に出来ないんです」

「……ではこの間見事な演奏をしてくれた女房を出してください」

「……っ、そ、それは……」

「ほら、やっぱり姫だ」

 堪えきれずに笑うと、几帳の中の人はふん、と顔をそらしてしまった。

「姫」

「なんですかっ」

 雅さも何も無い、憮然とした声にくすくすと笑いながら、幸宗は笛を取り出して立ち上がった。

「一曲でいい、合わせて頂けませんか?」

「……だから、出来ないって……」

「そうして頂けたら、諦めて帰りましょう」

「……」

 長い、沈黙の後。

「本当に……、一曲だけ、ですよ?」

 姫の言葉に、幸宗は満面の笑みを浮かべた。



 先日は、ほんのさわりしか聴かせて貰えなかった、月を称える曲の見事な琴の音。幸宗は酔いしれながら、自らも見事に龍笛の音を合わせてみせた。

 月は下弦の弱く青い光を放っていて、包み込まれるような光と音の流れに我を忘れ、しばし切ない流れに身を任せていると、やがて最後の旋律が、名残惜しく闇に響く。

 うっとりと余韻に浸りつつ、几帳の中の人を見ると、中からほうっと感嘆の吐息が漏れるのが聞こえた。それから、少し身動きする、気配。

(……こちらを、見ている)

 じっと、几帳の中から見られている。こちらからはまるで見えないのに、あの姫はじっと自分の姿を見つめているのだ。幸宗はもう、堪え切れなかった。

 断りもせず、姫君の前の几帳を押し除けていた。



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