八.



「姫さま、また、お文が来てますわよ」

「えっ、また……!? 今日、もう二回目よ……」

 五条の小さな屋敷に住まう姫君・楓は、呆れた、と嘆息した。

「本当に、熱心ですわねぇ……頭の中将さま」

 屋敷に仕える数少ない女房の一人・八重はうっとりと頬を染めながら、いそいそと文を運んできた。

「な、なに頬染めてんのよ。いい歳して! 夫がいるでしょ、あんたには」

「ま、まぁ、それとこれとは別ですわ。本当に、うちの夫なんて比べ物になりませんわ。比べること自体が罪です! 姫さま、悪いことは言いませんから、一度なりと、お返事を差し上げて下さいませな」

 そういって渡されたのは、楓の枝に巻きつけられた極上質な御料紙。

「うぅ……毎回毎回、もったいないなぁ……。いくらするんだろ、これ……」

 しげしげと御料紙を透かしてみながら、楓はため息をついた。

「姫さまってばもう、そんな色気のない事ばっかり」

「だってさぁ……」

 ぱらりとお文を広げると、例のごとく信じられないような達筆で恋歌がしたためられている。



 み空行く 月の光に ただ一目 相見し人の 夢にし見ゆる

(月の光の中でただ一目お会いしただけの貴女が、何度も夢に現れるのです)

 ――叶うことなら夢でなく、現に一目、お目にかかりたい……



 楓はぼっと頬を染めて、思わず文を放り投げた。

「な、な、何考えてんだろあの中将はっ!!」

 火照った顔が暑くって、楓は扇を広げて必死に風を送った。

「んまぁぁ……、姫さまってば、こんな素敵な御文になんて事!」

 慌てて拾い上げつつ中身を読んだ八重はうっとりと目を潤ませて、ごくりと生唾まで飲んでいる。

「姫さま、相手は頭の中将ですわよ! いい加減お返事しないといけません! 無礼を働いて、伯父君の出世に障りでも出たらどうされますの! こんなお屋敷、あの方にかかれば一捻りなんですわよ! 一捻り!!」

「うっ……」

 一捻り、という言葉に説き伏せられて、楓はとうとう筆を取った。しかしあんな達筆でおくられた文への返事だというのに、さほど上手くもない文字で、気の効いた文句も歌も浮かばず、楓は酷い自己嫌悪に陥った。

(あぁ〜、もう、嫌!)

 確かにあの晩、月の調べを奏でたあのひと時は、夢見ているようなふわふわとした心地で、頭の中将の姿もまるで夢の住人のように美しく、楓はうっとりと、ほんの一瞬、心奪われていたのである。

(でも!)

 どん、と楓は床を叩いた。

(あんな遊び人の中将なんかに絶対手篭めにされてたまるか〜っ!!)

 やっとの思いで楓が書いた文にはただ、一言。



 ――楓の庭に、忘れ物を取りにいらっしゃいませんか。





 まさかその日のうちに中将がすっ飛んで来るとは思わなかった。いや、明日にも来るだろうとはなんとなく予想していたのだが。またしても夜の対面である。

(暇なのかしら……)

 楓は今日は二重にしてある几帳の影で、そっとため息をついた。

 やってきた頭の中将は満面の笑みを浮かべていた。

「姫、まさかあなたから文が頂けるとは……本当に私は、びっくりしてしまって。気も落ち着かず、無礼があれば申し訳ない」

「いえ……」

 気の無い返事を返しても、頭の中将は本当に綺麗な顔をほころばせて嬉しそうにしている。初めてこの人の笑顔を見たときにも思ったが、頭の中将はとても綺麗な顔立ちをしていた。

(やっぱり一流貴族ともなると、顔の造りからしてぜーんぜん、違うんだわ……)

 ついまじまじと中将の顔を見つめていると、なにか勘違いしたのか中将は照れたように頬を染めて笑った。

「姫……。叶うならもう一度、私もあなたのお顔を拝見したいのです……」

 楓はぞっとして思わず後退った。あの晩、唐突に几帳を除けられて、抱きしめられた事を思い出したのだ。あの時はそのまま無理やり手篭めにされるのかと本当に恐ろしかった。……しかし実際の中将は、その後とても優しく謝ってくれたのだが。

「はは……これ以上いうと、嫌われてしまいますね。姫……私は、たとえ好かれてはいなくても、嫌われてはいないと……そう思っていてもよろしいでしょうか……?」

 どうして、真顔で、こんな恥ずかしいことをすらっと言えるのだろう、この人は。しかも全く違和感もなく、似合ってしまうのだから、嫌になる。

 楓は顔を真っ赤にしてうなずくのが、精一杯だった。

 また、嬉しそうに頭の中将が微笑んだとき、屋敷の前に牛車が停まる、音が聞こえた。



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