十四.



「……、な、なによ……もう」

 椿は込み上げる罪悪感を紛らすように、ぼそぼそと呟いた。左兵衛佐の傷ついた表情が、まなうらにちらついていた。

「文くらいなんて……軽く言って……」

「そうですね、軽く考えてはいけません。もし間違った返事を返したら、寝所に押し入られても文句は言えないのですから」

「!」

 唐突に声をかけられ、慌てて声の方を向く。簀子縁の端からこちらへ歩いてくるのは、先ほど目にした公達よりもだいぶ年上で物腰の落ち着いた……。

「隆文……! いつから居たの?」

「左兵衛佐殿が姿を現したあたりからです」

 いいながら隆文は御簾の前にまでやって来て、兄が座っていた円座を避け床板に腰を下ろした。隆文の整った顔がこちらを向くと、椿は酷く落ち着かずそわそわと扇をもてあそんだ。

「左兵衛佐殿は……本当に姫にご執心のようですね」

「そ、そうね……」

「……あのように一途に振る舞えることを、羨ましく思います。……私には、……出来ませんから」

 そう言った隆文の顔は何か……気のせいかもしれないが、少し不機嫌そうに見えた。椿の胸はどくどくと脈打つ。

「で、でも、あたくしは別に……っ、左兵衛佐さまの事はっ」

「ええ。聞いていましたよ」

 隆文はにっこりと笑みを浮かべ、堪えきれずにくっくっと少し漏らした。

「興味ありませんと、はっきりおっしゃられていましたね」

「ま、まぁ……っ!」

 それでは隆文は左兵衛佐が姿を現す前から話を聞いていたのではないか。抗議しかけたが、

「安堵いたしました」

 先に言われてしまい、椿は頬に血がのぼって何も言えなくなってしまった。

「……っ」

 隆文は満足げな笑みを浮かべて、話題を変えた。

「……今日は、誰も居ないのですね。安芸はどうしたのです?」

「……あ、兄上が……人払いをして欲しそうだったから、さがらせたわ」

 椿はまだ動悸がおさまらず、ぺたぺたと頬を抑えている。

「そうですか、……まぁ、準備の必要も無さそうだから、構わないでしょう」

「準備?」

「じきに、大臣がいらっしゃいます。私は、先触れで参りました」

「あ、そう……」

 会いに来てくれたわけではなかったのね……と、少し気を落とす。それにしても父が先触れを隆文に頼むのは珍しい。大抵は女房を寄こすのだが。

「……何か、お話でもあるのかしら」

「……ええ」

「知っているの?」

「……まぁ」

 隆文の歯切れは悪かった。いつも微笑を湛えている表情に、陰りがよぎる。

「……あんまり、良いお話では無いのかしら」

「いえ、……いや」

 隆文はためらうように視線を逸らした。

「あまり……良い話ではありませんね。……私にとっては」

「え……?」

 隆文は小さなため息を漏らし、椿の方へ顔をもどした。

「……大臣が来るまでに少し時間があります。……私の口から、姫に先に伝えておけとのご命令で……」

 隆文の表情の陰りが濃くなったように思えた。

「なぁに?」

「大臣の勧めで、弘徽殿女御が管弦の宴を催されることになりました」

 弘徽殿女御とは、椿の姉で、今上帝の女御・咲子姫のことである。

「お姉さまが?」

「それで……椿姫にも後宮へ参って頂き、筝の琴をお弾き参らせるようにと」

「まあ! そうなの!?」

 ほとんど邸に閉じこもりきりの深窓の姫君の椿にとっては、滅多に無い外出の機会である。琴は得意でもあるし、久しぶりに姉に会えるのも嬉しい。何も嫌な事など無さそうなのに、しかし隆文の表情は固かった。一瞬声を弾ませた椿だが、急に不安が押し寄せる。

「ねぇ、どうしたの? 何か嫌な事でもあるの?」

「姫は……お嫌ではないのでしょうね」

「?」

 隆文の声はどこか暗く沈んでいて、椿はますます不安になった。

「宴の席には主上と……春宮もいらっしゃいます」

「え」

「春宮と椿姫をお引き合わせさせようという、大臣の思し召しなのです」

「……! で、でも……、そんな、どうせ御簾越しでしょう……?」

「さあ。主上などが悪戯心を起こせば、慌て者の女房が御簾を捲くってしまう事など、珍しくもありませんよ」

「……っ」

 むっつりとした声で言われて、椿は青ざめた。

「……そんな……」

「ああ、不安にさせるような事を言って、申し訳ありません。大丈夫です、姫のお世話をする女房は皆、弘徽殿様付きのしっかりした者ばかりですから」

 隆文は慌てた様子で口調を和らげ、椿を慰めてくれようとした。しかし椿は急に気乗りがしなくなった。

「……」

 今上や春宮に会う事は、それほど嫌だとも思わない。ただ、隆文が不機嫌そうなのが、何より気にかかった。



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