十五.



 そのうち、右大臣が姿を現した。いつもは女房を何人か引き連れてくるのだが、今日は一人でのお出ましである。辺りの様子を伺うように見回して、

「やあ、椿。ご機嫌はどうだね。……今日は大事な話があるんだが、良いかな?」

御簾の内に入りたそうに扇で指した。

 椿は頷いて立ち上がると、部屋の奥へ移って几帳の裏側へ回った。

「今、座を用意させますわね、少しお待ちに……」

 人を呼ぼうとすると、止められた。

「いやいや、良い」

 そう言うと、大臣はさっさと御簾を押して中へ入ってきた。隆文が御簾の外でじっとしているのを振り返って、手招きする。

「隆文も、来なさい」

 隆文は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに深く一礼して御簾をくぐった。

「……安芸も、誰も、居ないね?」

 確認するように大臣は辺りを見回した。

「え、えぇ……誰も」

 椿は父の様子をいぶかしく思い眉をひそめた。

 部屋には父右大臣と隆文、それに椿の三人きりである。

「……話は、もう聞いたかな?」

 大臣はやっと落ち着いて腰を下ろした。直ぐ後ろに隆文も控える。

「聞きましたわ。お姉さまが宮中で宴を催されるとか。あたくしは、琴を弾きに参るのですわね」

「うむ」

 大臣はうなずいた後、口を開きかけ……また閉じてしまった。

「……」

「……あの、父上さま、どうされましたの?」

 いくら気乗りがしなくなったとはいえ、断るつもりは、無い。宮中へ召されるなど、ありがたくももったいない無い話で、断るなどとても恐れ多い事なのだ。

「宴に春宮がいらっしゃることは聞きましたわ。……あたくしは、異存は……ございませんけど」

 椿の言葉にも、父は「うん」と一度頷いたきり、扇を口元にあてて黙り込んでいる。この父がこれほど思い悩むなど、一体どうしたというのだろう。

「あの……?」

 後ろに控えている隆文は端座したまま表情を崩さないので読めないが、父の様子を伺うように何度か視線を向けているので、恐らくこれ以上の事は知らないのだろう。

「実はな、椿」

 父はようやく意を決したのか顔を上げた。

「この宴で、どうあっても春宮のお心を掴んで欲しい」

「……は」

 椿は僅かに口を開いたままきょとんと父を見つめた。

「多少強引にだね、こっそり文を渡すなり垣間見させるなり、何をしても構わん。どうあっても春宮の気を惹いて欲しいのだ」

「……」

 椿は目を見開いて、父右大臣の顔をまじまじと眺めた。……真剣な顔をして、何を言っているのだろう、この父は。

「あの……、父上さま? そのようなはしたない真似、あたくしには」

「やってもらわねば困る!」

 椿の言を遮って、父は口調を強めた。椿は呆れてしまい、返す言葉を失った。

 もともと父は何度も春宮に椿の入内を勧めている。断られつづけている事だけでも外聞は宜しく無いというのに、当の姫の方から文を送ったなどと、もし世間に知れたら椿の名誉に関わる。

 大臣の後ろに控えている隆文も何か言いたそうな、難しい顔で大臣を見ていた。

「椿や。……私はね、もしそこまでしても春宮がお前の入内を認めんというのであれば、その時は……」

 そこで一旦言葉を区切って目を閉じ、息を吐き出した。つられて、椿も思わず息を吐き出す。

「その時は、帝への入内を、考えている」

「……」

 何を。

「……あの……」

 父は何を言ったのか。理解するのに時間がかかった。

 帝への、入内。

「どう、して……だって、お姉さまが」

 やっと理解するのと同時に、激しい怒りが込み上げる。

「帝には、お姉さまが」

 目の端には、いつもは冷静な隆文の、驚きを隠せない表情が映っていた。

「大臣……」

 隆文の口からも低い声が漏れる。

 父はもっともだというように何度もうなずいた。しかし。

「そう、帝には咲子をあげている。……しかし姉妹で同じ帝に入内するというのも前例の無い話では無い。……咲子が、今上がまだ春宮の頃に入内してから早八年。他のどの妃よりもご寵愛は深いと確信している。……しかしな、咲子の腹に御子が出来るのは、もう、望み薄じゃないかと思うんだよ……」

「……!」

 椿は愕然とした。

 姉が入内して八年。帝には、その後も二人の姫が入内され、それぞれに御子がお一人ずついらっしゃる。しかし生まれた御子はどちらも皇女で、いまだ皇子はいらっしゃらない。……つまり。

「皇子が……欲しいのね。……あたくしが、産めば良いと……」

 それ以上、言葉が続かなかった。大貴族の姫に生まれついたなら、それは期待されて当然の宿命。……仕方が無いことと、知ってはいるけれど。

「……っ」

 何も、言えない。何も、浮かばなかった。



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