十六.
椿が口もきけず黙り込んでいると、
「僭越ながら……」
隆文が口を開いた。
「そのお考え、帝や春宮はご存知なのでしょうか」
右大臣は隆文を振り返ると、ゆっくりうなずいた。
「春宮へは当然伝えていないが……帝には、それとなく打診している」
隆文の顔が目に見えて強張った。
「……帝は、何と」
「考えてみようと、おっしゃっていたよ。……咲子に子が出来ない事は、帝も気にしておられる。姉妹で寵を競わせるのは不憫なことだが……今更別の貴族から姫を迎えるよりは、気も楽だからとおっしゃってね」
「……!」
隆文のこわばった表情から、血の気が失せて行くのが分かった。それは椿も同様で、ひどいめまいに襲われている。
「春宮が駄目なら、帝なの……」
ぽつりと、唇から漏れた。攻めるでも怒るでもなく、ただ独り言のように零れ落ちた。
「すまんな、椿。しかし私としてはやはり、咲子のいる帝よりも、春宮の元へお前を入内させたいんだよ。春宮妃はお前も望むところだろう。この度の宴でぜひお前の事を良く知っていただいて、大納言家の姫にも決して劣らぬところを見せて欲しいのだ」
「……」
もう返事を返す気力も無かった。椿は脇息にしがみつき、額を押し付けるようにして涙を零した。
悔しかった。分かっていた事だったが、悔しかった。自分は唯の、政治の為の道具であり、子を成すための道具なのだという事を、改めて思い知らされた。
涙が後から後から零れ落ちたが、声だけは漏らすまいと椿は必死に唇を噛んで堪えた。
右大臣は困ったようにしばらく椿の様子を伺っていたが、そのうち立ち上がった。
「宴は、十日後だよ。それまで、せいぜい琴の練習に励んでおきなさい」
そう言って背を向ける。後を追おうとして立ち上がった隆文を振り返って、
「隆文。椿を、慰めてやってくれんか。……お前をここへ呼んだ意味、分かるだろう……?」
大臣は椿と隆文を見比べるように視線を交互させた。
「……どういう、意味でしょう……?」
「椿はお前を……兄のように慕っている。慰めてやって欲しい」
言い残して、右大臣は部屋を出て行った。
「た、隆文も……行って。一人にして」
椿は嗚咽を殺しながら、ようやくそれだけ言った。
几帳の向こう側で、隆文が座りなおす気配がする。
「姫……」
低い声が涼しげに響いた。こんな時でも落ち着いている隆文の声がやけに椿の癇に障った。頭が酷く混乱して、とても隆文を思いやる余裕が無かった。
「何よ……っ! ち、父上さまに言われたから慰めるの!? そんなのいらないわっ!」
叫ぶと、余計にぼろぼろと涙が溢れる。
「姫……」
再度呼ばれて、顔を上げると、隆文の怖いくらいに真剣な表情がみえた。眉間に寄った深いしわに、つり上がった眉、鋭く座った眼差。いつも穏やかな隆文からは考えられない剣呑な表情に、椿はさっと青ざめた。
「……た、隆文?」
「姫はどうされたいとお考えですか」
「……どうって」
「春宮へ入内するか、帝へ入内するか」
「……」
答えられずにいると、隆文はふっと口元に笑みを浮かべた。どこか、自嘲気味だった。
「それとも私と……駆け落ちして頂けますか」
「……っ」
呆然とした。まさかお堅い隆文がそんなことを言い出すとは、思いもしなかったのだ。
「そんな事……」
椿が呟くと、隆文はふっと笑みを消して真顔になった。
「現実的なのは、春宮へ入内することです。年齢的にも近いし、春宮の妃はいまだお一人のみ。比べて帝には女御更衣合わせて三人、何より姉君がいらっしゃる。実の姉君と寵を競うのは、お嫌でしょう」
椿は深く頷いた。
「あ、あたくし……お姉さまと寵を競うのだけは絶対に、絶対に嫌……!!」
年端も行かぬ子供の頃とは訳が違う。それがどんなに辛い事か、今の椿には容易に想像がついた。それだけは何としても避けたかった。
「……では、大臣の言われる通り、春宮のお心を掴むしか道はありません」
「……っ、で、でも」
「もし上手くいかなければ、帝への入内話はあっという間に進んでしまうでしょう。……すでに帝が『考える』とおっしゃっていたのであれば、もう何の障害も無い。とんとん拍子に話が進むだけです」
「でも……」
「姫。覚悟を決めてください。春宮のお心を掴むと」
隆文の目は真剣だった。急に、隆文の心が遠くへ離れてしまったような気がする。隆文は、自分を好きだと言ってくれていたはずなのに。
「で、でも春宮は、一人の女御様にご執心なんでしょう……?」
言い訳するように肩を落とし、椿は言った。しかし実際に、初対面の男性の心を動かすような手管を、椿は知らない。まして他に想い人のいる公達の心を動かすなど、途方も無いことに思える。
「心配要りません、姫。姫がお覚悟を決めるのであれば……この私が、必ず春宮を動かして見せます」
「た、隆文」
「どうされますか、姫」
「あ、あたくしは……」
このまま居たい。このままこの家で、隆文と。……それが一番の望みだった。叶わない事と、随分前から分かっていた。何度も考えていた事だ。……どうせ、叶わないのなら。
……答えは既に、出ていた。
「……春宮妃に」
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