十七.



 庭の木も枯れ枝が目立つようになっていた。身を刺すような冷たい夜気に冬の気配を感じる。椿は大殿油(おおとなぶら:部屋の中を照らす灯り)の灯りが僅かに漏れ届く簀子縁の端に、ぺたりと座り込んでいた。

 御簾も几帳も隔てず、こうして直接庭を眺めるなど、もう何年ぶりのことだろう。人に見咎められたらとても恥ずかしい、はしたない真似をしているとは分かっていた。しかし椿はどうしても、最後に庭を見ておきたかった。……もう、戻って来れないかもしれない。明日にはもう、後宮へ向かうのだ。

 宵闇月の明かりは弱く、ほとんど庭は見えなかったが、それでも椿は長いことその場に座り込んでいた。

「きゃっ!?」

 短い悲鳴が聞こえた。声の方を見ると、一瞬身を強張らせてこちらを凝視した後、慌てて駆け寄ってくる。

「ひ、姫さま!? そ、そんなところでどうされましたのっ!?」

 安芸(あき)は慌てふためいていた。椿が簀子縁に出ている事など、今までに無かったのだから仕方が無い。それもこんな、夜更けに。

「物の怪(もののけ)とでも、思った?」

 椿はくす、と笑った。

「だ、だって、まさかこんなところにいらっしゃるなんて、思いませんもの。どうされましたのっ?」

 安芸はおろおろと椿の脇に立って、何も無いのに辺りを見回した。

「庭を見ておきたかったの」

「……まぁ、でもあの、こんな寒い夜更けに、お一人で、こんな端近では……」

 おろおろと言いつつ、安芸はなんとか椿を部屋の中に入れたいようだった。

「ねぇ、隆文は……今日は来ないのね」

「え?」

 椿は安芸の気を逸らすように話を変えた。

「本当なら、琵琶指南の日でしょう? 今日は」

「あ、あぁ……でも、今日は明日の準備やら何やらで、いろいろとバタついてまして……もう遅いですし。来ないと思います」

「……そうね。……来ないわね」

 最後に見た隆文の顔を思いだすと、差込みが走ったように臓腑が痛む。冷たく、悲しみに歪んだ、あの表情。……忘れられない。春宮妃になるという椿の言葉に、「分かりました、必ず」と。短く答えた声は冷たく低く、しかし僅かに、震えていたのだ。……きっとあの時、傷ついていた。

「あの、お風邪を召されますわ。中に……」

 どうせなら風邪でもひいて、寝込んでしまいたかった。後宮になど、これっぽっちも行きたくない。

「まだ、いいわ」

「でも……」

 安芸が困り果てている。しかし椿はそのまま腰を上げる気にはなれなかった。

「いいわ。灯りなら自分で消すから。さがっていいわよ」

 安芸がやって来たのは、灯りを消す時間になったからだ。

「そうはいきません! 姫さま、本当にどうされましたの?」

 安芸は椿の隣に座り込んで、視線を合わせた。

「安芸……」

「後宮へ行くのはお嫌なんですか?」

 椿はすっと視線を逸らした。

「嫌ではないわ……。表向きは、お姉さまの宴に出席する為だけれど。ほとんど入内するために行くようなものだもの。こんなにめでたい事は、無いわ」

 嫌だなどと、思ってはいけないことなのだ。

「姫さま……。安芸には姫さまが、無理をなさっているように見えます。安芸には本当の事、おっしゃってくださっても良いのに……」

 安芸は泣き出しそうな顔をして、椿の袖を掴んだ。

「……安芸」

 昔から、安芸に泣かれると弱い。乳姉妹の安芸は同い年ではあるのだが、妹のような気がして、つい、慰めてやりたくなる。

「大丈夫よ」

 椿は袖を掴んだ安芸の手を、励ますようにぽんぽんと叩いた。

「大丈夫じゃ、ありません……! 春宮は、いまだ宣耀殿の女御様お一人にご執心と聞きます。そこへ飛び込んで行かれるのが、不安なんではないですか……?」

「え……」

 椿はぱちぱちと瞬きした。

「姫さま、私、頑張ります。きっと春宮のお心が姫さまに向くように、どなたにも負けないように姫さまを立派に飾らせて頂きますわ……っ、だから、心配なさらないで……!」

 安芸の表情はどこまでも真剣で、目には涙さえ浮かべていた。安芸は、椿が隆文に寄せる想いも、隆文が椿に寄せる想いも知らない。純粋に、椿は春宮妃になる事を望んでいると思っており、その障害になりそうな女御の事だけを心配している。

「……ぷっ」

 椿は噴出してしまった。的外れな事を言う乳姉妹の様子がおかしくて、……ありがたくて、涙が出そうだった。

「えっ、あの……?」

 急に笑われて、安芸は困惑していた。悪いとは思いつつ、椿は笑いを止めることが出来なかった。しばらくくすくすと笑って、ようやく一呼吸つく。

「……そうね」

 春宮に気に入られなければ帝へ入内する運命にある。……それだけは、避けなければ。安芸はその事を知らないけれど、その意味で、完全に的外れな応援ではないのだ。

 隆文がどんな手を使って春宮をその気にさせるつもりなのか知らないが、きっと、やってのける。隆文は父右大臣はもとより、帝にさえ目をかけて頂いている程の優秀な蔵人なのだ。……きっと、やってのけてしまう。

 椿にはもう、どうなって欲しいのか自分でも分からなかった。帝に入内するのは嫌だ。春宮への入内も、気が進まない。……流れてしまえば良いと、ずっと思っていたのに。

『それとも私と、駆け落ちしていただけますか』

 隆文の言葉が、椿の中で何度も反復した。それが出来たらどんなに良いだろう。

「ずるいわ。……隆文は、ずるい」

 うんと言えない事を分かっていて、ああ言った。

「え? 兄さまですか……?」

 突然兄の名を出された安芸が困惑するのを眺めて、椿はまた、くすりと笑った。

「そうよ。……後宮でも、会えるかしら」

「はぁ、……よく出入りをしてるようですから、会えると思いますけど……」

「……そう。……そうね」

 二度と会えないわけでは、無い。

 しかしあの時の隆文の表情がちらついて、会うのは少し、怖かった。会っても何を言ってよいか、分からない。

「姫さま? 顔色がよろしくありませんわ。そろそろお部屋に入りましょう? ……らしくありませんわ。そんなに思い悩んでらっしゃるなんて……」

 安芸はひどく心配そうに眉をひそめて立ち上がり、椿の手を引いた。椿は諦めて立ち上がった。



<もどる|もくじ|すすむ>