十八.
雅やかな管弦の音が聞こえてくる。紫宸殿(ししんでん)の方には大勢の人の気配がして、宴でも催しているようだった。
「賑やかなところね」
「本当に。……なんだか気後れしてしまいますわ」
安芸は落ち着かない様子で何度も辺りを見回している。
とうとう後宮へやって来た椿は、姉の殿舎である弘徽殿の局(つぼね)の一つへ通された。さほど広い部屋ではないけれど、間仕切りは無く部屋には椿と安芸の二人きり。
梅香を焚く良い香りがどこかから漂ってきて、椿は懐かしい気持ちになった。姉は右大臣邸にいた頃から、梅香が好きだったから。
「お姉さまにはまだ会えないのかしら」
直ぐに姉の元へ通されるのだろうと思っていたのに、随分長い間この局で待たされている。
「見てまいりましょうか?」
「大丈夫?」
「は、はい」
安芸が立ち上がったが、その様子がひどく心もとない。
「やっぱりいいわ。座って」
「でも」
いいから、と言って安芸を座らせ、椿は御簾の側へ寄って外の様子を伺った。すると、簀子縁の先で、女房装束が此方へ向かっているのが見えた。
慌てて奥へ引っ込み居住まいを正すと、ほどなく御簾の向こうに女房が立ち止まった。
「失礼いたします、弘徽殿女御様がおいでになります」
「まあ」
てっきり呼ばれると思っていたのに、姉自らのお出ましである。安芸に御簾を捲くらせると、きらきらと輝かんばかりの笑顔で、姉はもうそこに立っていた。
「三の君、久しぶりですわね」
「お姉さま」
小袿の裾を裁いてさっさと椿の前に座る。横にいる安芸にも視線を向けて、姉・弘徽殿女御はにっこりと微笑んだ。
「安芸も、久しぶりだこと。大きくなりましたわね」
声をかけられて驚いたのか安芸は慌ててひれ伏した。
「本当に、お久しゅうございます……」
姉の後ろに、引き連れて来られた女房達数人が座って控えると、姉は満足げに頷いて椿に視線を戻した。嬉しそうに細められた目尻が下っている。
「思っていたよりもずっと美しくなっていて……驚きましたわ。本当に良かったこと」
姉はゆったりと微笑んで、後ろに控えている女房へ「ねぇ」と言って視線を送った。
「……」
「?」
椿は姉の後ろに控えた女房の一人を見て、首をかしげた。その人だけ、女房にしては随分と身軽な格好をしている。
「あの、そちらの方は……」
もしや身分ある姫君では、と慌てて背筋を伸ばすと、姉は振り向いてうなずいた。
「宣耀殿の桜君さまですわ」
「!」
宣耀殿女御。後宮では桜君の呼び名で親しまれている、春宮唯一の妃である。
「まぁ……お目にかかれて嬉しゅうございます、桜君さま。……あたくし、右大臣の三の君です。この度は弘徽殿のお姉さまのお召しで後宮へ参りました。分からないことばかりでご迷惑おかけするやもしれませんが、どうぞ、よろしくお願いしますわね」
慌てて口上を述べ、軽く頭を下げて微笑みかけたが、桜君はうつむいたまま、こちらを見ようとしない。不安になって様子を伺うと、何やら青白い顔色で、お腹のあたりに緩やかな膨らみが見える。
「あの……なにやらお顔色が宜しくありませんけれど……、お身体の方は大丈夫ですか」
まさか身重の身体の加減が悪いのでは、と心配になって声をかけると、桜君は慌てたようにふっと顔を上げて、椿の方へ笑みを向けた。椿より年は上のようだけれど、どこかあどけなさが残る、かわゆらしい顔立ちをしている。……しかしその笑顔はどこかぎこちなく、引きつっていた。
「……ご、ごめんなさい。あの、私、ちょっとあの、びっくりしてしまって、その、あの……えーと、三の君様は……」
言いながら段々と声が小さくなって、最後にはまたうつむいて口ごもってしまった。
「……」
椿は訳が分からず首をかしげる。
「桜君さま、今からそんな事でどうしますの!」
突然、威勢のよい姉の声が飛んだ。桜君はびくりと肩を揺らして姉の弘徽殿を見る。
「もう、しっかりしてくださいな。貴女はもうすぐ御子をお産みになられるのでしょう。三の君は確かに貴女よりは身分は上になります。でも、引け目を感じられるような事は全くありませんのよ」
そこまで言うと、姉は椿の方に向き直った。
「三の君、貴女にも桜君の人となりを知っておいて頂きたかったのよ。私、桜君には随分仲良くさせて頂いていますの。……気を悪くしないでね、これから長い付き合いになるんですもの。……正々堂々、お互いを良く知っておいた方が良いと思ったんですわ」
椿には姉の言わんとすることが理解できずに、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「あ……」
(……あたくしが、もう春宮に入内するものと思っているんだわ。だから……)
ようやく気づいて、改めて桜君を見る。伏せられがちな瞳はうるうると揺れて、今にも泣き出してしまいそうに見えた。
(あたくしが、悲しませているんだわ……)
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