十九.



 青ざめた桜君の横顔に、椿の胸がずきりと痛んだ。桜君の悲しみが伝染したのかもしれない。思わず目頭に込み上げる熱いものをぐっと堪え、椿は微笑んだ。

「身重のお身体をお訪ねさせてしまって、申し訳ありません。こちらからまた、改めてご挨拶に伺いますわ。やっぱり、桜君さまお加減が悪そうですもの。お戻りになられた方が宜しいわ。ね、お姉さま」

 そう言って姉に視線を送ると、姉も辛そうな桜君の様子に居たたまれなくなったのか、眉をひそめてうなずいた。

「……そうですわね。私も、少し気が急いていたかもしれませんわ。桜君さま、また、改めて、三の君をそちらへ遣りますわ」

 桜君はいよいよ顔を伏せて、ふるふると肩を震わせた。

「ご、ごめんなさいっ」

 搾り出すように言って、立ち上がる。桜君付きの女房も来て居たのだろう、控えていたうちの一人が一緒に立ち上がり、慰めるように桜君の肩の辺りに手を掛けている。

 椿の胸の痛みがいっそう強くなった。

「桜君さまっ」

 出て行こうとする桜君を、思わず呼び止めた。

「……あたくし、桜君さまを傷つけるつもりなんて、無かったんです……」

「……」

 振り向いた桜君は涙の溜まった目を何度もしばたかせて、きょとんとした顔で椿を見つめた。そのうち、はにかんだように少しだけ笑った。

「ご、ごめんなさい。……私、三の君様が本当に……お綺麗でご聡明そうな方だったから、びっくりしてしまって……。と、春宮さまには、やっぱり……。……」

 言いながらまた泣き笑いのようになってしまって、桜君は慌てて扇を広げて顔を隠すと、ぺこりと会釈してさがって行った。

「……なんだか悪いことをしてしまった気分ですわ」

 姉は不服そうに扇を弄びながら唇を尖らせた。

「少しでも慣れさせて差し上げようとしただけですのに」

 椿も同じように扇を開いては閉じて弄んだ。

「……可愛いらしい方ですわね」

 どこか幼さの残る仕草や表情が、本当に愛らしい方だった。

「そうでしょう!?」

 姉はぱっと破顔して椿を覗き込んだ。

「本当にお可愛らしい方ですのよ。なんだか放っておけませんの。だから春宮も……」

 言いかけて、慌てて姉は口をつぐんだ。これから春宮に入内する椿に、聞かせる話ではなかったのだろう。

(……そんな気遣いなんて、いらないのに)

「……分かりますわ」

 言って、椿は姉に微笑み返した。すると姉も満足そうに微笑む。

「ふふ。桜君は、帝もお気に入りですのよ」

「え……」

「ほとんど、からかわれてばかり居るのですけれど」

 姉は扇で口元を隠しつつ、くすくす忍び笑いを漏らした。

「私もつい、楽しくて。一緒になって遊んでしまいますの」

 耐え切れずにほほほ、と漏れる声。

「帝も……」

 姉の口から帝の話が出たと同時に、父の言葉が椿の脳裏を過ぎった。

――春宮へ入内出来ないのなら、帝へ入内を――

「あら、そんなに緊張しなくても宜しいのよ。帝はそれはもちろん尊い身のお方ではありますけれど……悪戯心もお持ちなのです」

 楽しげに片目を閉じてみせる姉は、はつらつとして美しい。

(何も、知らないんだわ、お姉さまは)

「……」

「大丈夫よ、貴方はからかわれたりしないと思うわ。……椿?」

 椿の様子をいぶかしんだのか、姉が小首をかしげる。椿は軽く首を振った。

「お姉さま……楽しそうですわね。……帝とは、楽しくお過ごしですのね」

「ええ。ふふ、これはとても幸運な事だと思うのですけれど。私、後宮へ上がってとても楽しくて……幸せですのよ」

 目を細めて言う姉の、頬の赤みが少し増した気がした。

「まぁ……素敵ですわね」

「ですからね、椿」

 姉は扇越しにまっすぐと椿を見据えた。

「貴方にも幸せになって貰いたいのですわ。……それは、桜君との間に、少しの確執も無いという訳には、行かないかもしれませんけれど……。でもね、私は二人ともに幸せになって頂きたいのよ」

「……」

 何と答えて良いか分からず、椿はただ曖昧に微笑んだ。

(……言えない)

 姉は椿が春宮に入内するものと信じきっている。姉には何も知らされてはいないのだ。

 姉の笑顔まで、桜君のように曇らせてしまう訳には、いかない。

(……春宮のお心を、掴まなければ)

椿は姉の笑顔を見つめながら、諦めにも似た決意を固めた。



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