二十.
後宮へ来てから二日。相変わらず弘徽殿の局で安芸と二人、琴をかき鳴らしたり時折訪ねてくる姉と話をしたりと、穏やかに過ごしていた。椿が琴を演奏する予定の宴まで、まだ三日ある。陰陽での吉日が無かったせいで、椿の参内は随分早い時期となっていたのだ。
春宮の気持ちを掴むためには、時間は出来るだけあったほうが良い……とはいえ、こちらから行動を起こす術など椿にあるはずもなく、ただいたずらに後宮での日々は過ぎていた。
その日も椿は安芸と二人、琴を引っ張り出して来たところである。
「あら、お姉さま」
局に下げていた御簾が前触れも無く上がって、姿を見せた姉に椿は驚いた。安芸は青ざめて平伏している。姉はものも言わずにすたすたと椿の前までやって来て、さっさと腰を降ろした。慌てて後を追ってきたらしい女房も後ろに控えて平伏する。
姉は神妙な顔つきで、何か言い出すのをためらうように、ぱしぱしと扇を手に打ち付けていた。
「ど、どうしましたの……?」
(まさか)
はっと思い当たって椿は息を呑んだ。まさか自分が帝に入内するかもしれないと言う話が、姉に漏れたのでは……。
「あ、あの……」
椿が口を開きかけると姉はぱちりと扇を鳴らし、付いてきた女房と安芸に目をやった。
「伊予、安芸、ちょっと」
言われた伊予と安芸は、人払いの合図に気づいて目配せし合い、それぞれに一礼して下っていた。
わざわざ人を遠ざけるほどの話となれば、やはり……と、椿が覚悟を決めたとき。
「……桜君が、里下がりする事になりました」
姉は予想外の言葉を口にした。
「え」
「まだ、臨月というわけでもないのに、下られるのですわ」
何かを堪えるように眉間にしわを寄せ、力強く扇を握り締めて姉は言った。椿は拍子抜けしてぽかんとする。
産月が近くなれば、女御が里下がり(実家へ帰って出産する)するのは普通の事である。たしかに、桜君はまだ産月というほどのお腹には見えなかったが、女御の体調や希望によっては多少早く下る事があっても、とりたてておかしな事ではない。
「まぁ……、あの、桜君は、お加減が悪いんでしょうか……」
「いいえ!」
姉はぱしりと扇を鳴らし、きっと顔を上げた。
「桜君はここのところ沈みがちではありましたけど、お身体の方は至って順調でしたわ!」
興奮して言う姉の態度が、椿には分からなかった。仲良くしている桜君が下られるのは寂しいのかもしれないが、それだけでここまで機嫌が悪くなるとも思えない。
「あの……お姉さま?」
「桜君宛ての文が、見つかったのです」
「え?」
「桜君宛ての……恋文ですわ。相手がどなたかは分かりません。分かりませんけど、文面から、差出人の殿方と桜君は、お互いに思いあい通じ合っていた仲だそうです。……腹の子は誰の子か、と問うような内容だったそうですわ」
椿は目を見開いた。
「そんな」
先日の桜君の様子が思い出される。……そんな風には、見えなかった。
「とても、そんな風には……」
「当たり前ですわ! そんな事信じられません! ……春宮だって、お信じにはならなかったのに!」
興奮で口調が荒くなり、いまにも扇を投げつけそうだった。
「……あの、春宮は、このこと」
言うと、姉は扇を膝におき、興奮を鎮めるかのように息を吸った。
「ご存知です。運悪く、文を拾ったのが春宮に近しい侍従だったのです。このことを一番に知ったのは春宮ですわ」
「……」
「春宮は当然、信じませんでしたわ。何かの間違いであろうとおっしゃっていたのです。……でも、桜君は」
姉は深いため息を落とした。
「……何も言わないのです。否定もせずただ……里下がりを願い出たのですわ」
<もどる|もくじ|すすむ>