三.
右大臣邸に桜が舞う季節。九歳になった椿は安芸と二人、東の対の自室に篭って琴を掻き鳴らしていた。
「あぁ、もう疲れてしまったわ」
ほう、とため息を漏らして椿は手を止める。
「外はあんなにいい天気なのに……どうして女は外へ出てはいけないのかしら」
椿は庇(ひさし)のところまで出て行って庭の桜を見上げた。
「ねぇ安芸(あき)、少しだけ、お庭へ出てみない?」
琴を片付けていた安芸が驚いて動きを止める。
「まぁ、……誰かに見つかったら怒られてしまいますわ」
「大丈夫よ、あたくしたち、まだ子供なんですもの」
「でも……」
まだためらっている安芸の手を取って、椿は簀子縁まで出た。
「それじゃあ、安芸はここで、見張ってて頂戴ね」
「姫さま……」
おろおろしている安芸を簀子縁に残して、椿は階(きざはし)を下りて庭へ出た。
直接受ける日差しはとてもまぶしく暖かい。桜の木の下まで行って天を仰ぐと、一面桃色の桜花の合間に青い空が覗いて見える。
「わぁ……」
やはり部屋の中から見るのとこうして直接眺めるのとでは、同じ桜でも全然違うんだわ、と椿は感嘆した。はらはらと降ってくる花びらも美しく面白くて、椿はそれを袖に捕まえて、安芸に見せようと考えた。
「姫さま? 何をしてますの?」
「うふふ、ちょっと待っててね」
椿は落ちてくる花びらに手を伸ばしたが、それはするりと椿の小さな手を擦り抜けてしまい、中々思うようには掴まらない。
いつしか椿は夢中になって花びらを追いかけていた。ようやく捕まえたと思ったその時、安芸が慌てた声を上げた。
「姫さま! あっちの渡殿から、足音がします! 誰か来ますわ! 戻って、戻って下さい!」
「え……っあ……っ」
驚いた椿はバランスを崩して尻餅をついてしまった。
「……いたた……」
「姫さま!?」
安芸がばたばたと階を駆け下りて来る。
「だ、大丈夫ですか!?」
「ええ……」
助け起こされて腰をさすっていると、もう簀子縁の端に公達の姿が見えた。立烏帽子を被り、青い直衣姿の立派な公達のようである。
「まぁ……だ、誰かしら。ど、どうしてこちらへ……」
兄の友人の類だろうか、庭に出ているところなどを見られたらさすがに恥ずかしい……しかしもう戻るのも間に合いそうも無かった。
「あ……っ、兄さま!?」
安芸が声を上げる。
「えっ?」
近づいてくる公達の顔を良く見てみれば、それは確かに隆文だった。
「……何をなさっているんですか……」
簀子縁の上からさも呆れたような声。しかし椿は隆文の姿に釘付けになり、返事を返せなかった。
「……」
いつも隆文は美しい。しかしいつもは隆文は浅緑の袍を着て、低い烏帽子を被っているのに、今日は青直衣が目にも眩しい立派な公達ぶりで、その美しさはいつにもまして冴え渡るようだった。
「ど、どうしたの……?」
「私の方が聞いているんですよ、全く……早くお上がりください」
椿は安芸と共に部屋へ戻され、さんざん隆文から小言をもらってしまった。泣き虫の安芸はもう最初から泣き出してしまっている。
「あの……隆文、もう怒らないで……、ね。あたくしだって悪かったと思っているわ」
「全く……今後は二度と庭先へなどお出にならないように」
「はぁい。……ねぇ、それよりその姿はどうしたの?」
「……あぁ、今日はその報告をするために参ったのでした」
そう言うと隆文は袖を払って居住まいを正した。
「?」
「この度の除目(じもく:役職を決める儀式)で、私は六位の蔵人(くろうど)に叙されたのです」
「まぁ……」
六位といえば、椿の身分からすればまだまだ相当低いものではあるが、蔵人は殿上(でんじょう)も許されるとても名誉な職である。普通は身にまとうことを許されない禁色(きんじき)の青い衣を許されるのも蔵人の特徴であった。
「おめでとう、隆文」
「すごいわ、兄さま」
安芸はべそを掻いていたのが嘘のように目をきらきらと輝かせて、誇らしげに兄を見つめた。
「えぇ、それで……もう一人前にもなった事ですし、このお邸をおいとまさせて頂こうかと」
その瞬間、空気が凍りついたようだった。
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