二十一.



 椿は何と言ってよいのか分からなかった。桜君の事もまだそれほど良く知っているわけではないし、春宮も噂ばかりでお目にかかったことは無い。ただもしこの事が世間に知れたら、大騒ぎになるだろう事は分かる。……もし、父右大臣の耳にでも入ったら。そこまで考えて、椿は目を見開いた。

「あの……お姉さま。この事は、他にどなたがご存知ですの? ……父上さまは」

「父上には漏れたりしませんわ! 帝と春宮と私と、側仕えの幾人かしか知りません! ……父上がこの事を知ったら、とんでもない事になりますわ! それでなくても、父上は桜君を快く思っていないのですから……!」

 姉は椿の方に向き直って、もどかしそうに言った。

「この事は、きっと何かの間違いなんですわ。……私がわざわざこうしてあなたにこの事を告げたのは、万一あなたの耳に入ったとき、あなたに桜君を疑って欲しくないからなのです。今、帝も春宮も信用のおける僅かの者に命じて、文の出どころを調べさせていますわ。だからそのうちきっと間違いだと分かります。……桜君を憎く思わないでね」

 姉の目はどこまでも真剣だった。

 春宮の寵愛を独り占めして子まで身篭ったというのに、他の男と通じているかもしれないという、女御。その春宮に入内する身の上の自分が、女御を恨んだとしても、それは当然の事なのかもしれない。

 椿は首を振った。

「きっと間違いですわ、お姉さま。大丈夫、あたくし、桜君とはもっとお話したいと思ってましたもの。……憎むなんて、あり得ませんわ」

 椿が心から微笑んで見せると、姉もホッとしたように笑みを見せた。

「まぁ、良かった。……こうなってみると、先日、少しでもお会いさせておいて本当に良かったですわ」

 悪戯っぽく微笑んで、扇で口元を隠した。



 姉が局を出て行くと、入れ違いに安芸が戻ってきた。

「姫さま、大丈夫ですの?」

「え?」

「何か、良くないことでもありました? お顔色がすぐれませんもの……」

「ううん、大丈夫よ。……ちょっと、疲れただけ」

 椿は脇息にもたれたままで微笑んだ。……実際、桜君の件は、驚きはしたものの、椿にとっては痛手という訳でもない。春宮にはまだ会った事もないし、恋心などない。かえって桜君を気の毒に思うくらいなのだから。

「……お疲れですのね? ……それじゃあ、やっぱり……」

「どうしたの?」

 安芸が言いよどむのをみて、椿は身体を起こした。

「高成さまが、今、弘徽殿にいらしてますわ。ちょうど咲子様がお戻りになったので、お相手をされていると思いますけど……じき、こちらにもいらっしゃると思いますわ」

「兄上が」

 右馬の頭の兄の事を、幼い兄だとは思っていても、嫌っている訳ではない。知人の少ない椿にとって、気安く話せる、数少ない人の一人である。その頼りない面影を思い出して、椿はくす、と小さく笑った。

「あの、それが……左兵衛佐様もご一緒なんですわ……」

「え……」

「やっぱり、こちらへはお越し頂かない方が、宜しいですわね」

 表情の曇った椿の様子を見てとって、安芸はすぐに踵を返した。

「あ、待って。……いいわ。几帳越しなら、お話くらい」

 最後の気まずかった対面の事を思い出して、椿は言った。

(悪い人では無さそうだったのに)

 傷つけてしまったのは、悪かったと思っている。兄の親友でもあるのだから、邪険にしてばかりいるのも良くない。

(もう、諦めるとはっきり言ってたもの)

 今更、色めいた事を言われることも無いだろうと、椿は兄と左兵衛佐を通すことにした。



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