二十二.
兄が局を訪ねて来た頃には、もう日はほとんど落ちかけて、外は冷たい風がごうごうと唸りをあげていた。
「うう、寒い〜。ねぇ、入っていいの?」
御簾の外で安芸と声を交わし、やがて御簾をくぐって兄が姿を見せた。続いて左兵衛佐も姿を見せる。
「元気? 三の君」
にこにこしながら几帳の前にちょこんと座った兄の斜め後ろで、左兵衛佐はひざまずいて頭を垂れた。
「ええ、おかげさまで。……あの、左兵衛佐様も、お顔を上げてください」
言うと、整った精悍な顔をこわばらせたまま、左兵衛佐は顔を上げた。
「……先日は、本当に無礼な真似をしました。これから入内される姫君に対してあのような振る舞い、謝って済むとは思っておりませんが、本当に申し訳ない」
一息に言って再び頭を下げる左兵衛佐に、椿は困惑した。
「あの、あたくし、気にしてませんわ。むしろ、こちらこそ悪かったと思っておりましたの。本当に、お顔を上げてください。……それにまだ、入内は決まったわけでは」
「え」
驚いた顔で左兵衛佐が顔を上げた。兄も目を丸くしている。
「そうなの?」
「あ、いえ……」
春宮への入内が、決まったわけではない。……しかし兄は何も知らないだろうと、椿は言葉を飲み込んだ。
「父上なんか、張り切ってたけど。今度の管弦の宴の後の吉日には、もう入内だって。いい吉日が無い訳?」
「……あ、いえ……。そう、ね」
どちらへの入内になるかは分からないけれど。きっと日取りだけはもう決まっているのだ。
「? 元気ないなぁ、なんだよ、春宮なら不満無いんだろ。なぁ、美季」
兄は左兵衛佐の方をあごで指して、椿を責めるように口を尖らせた。
「こいつだってさ、何年も想ってたのに、やっと諦めるって言ったんだよ? 三の姫が幸せなら、ってさ。なのに、もっと嬉しそうにしてなよ」
「……」
……兄に悪気は無いのだろうけれど。椿は酷く腹立たしくて、音を立てて扇を閉じた。
「……あたくしだって、思う事があるんです」
「おもうことぉ? なんだよ、それ」
「おい高成、これから入内が決まろうという姫君に、思う事が無いわけ無いだろう。俺の事はいい」
焦ったように左兵衛佐は兄を制す。
「でもさぁ〜」
「一言、謝りたかっただけだ」
不服そうな兄を諌めて、左兵衛佐は椿の方へ向き直り、また軽く頭を下げた。
真面目な人だ。表情にも仕草にも、真面目で実直な人柄が良く出ている。今までに貰った文はどれも、素朴で穏やかで……取り立てて秀でた部分もなく、面白味を感じることも無かった。だから椿も特に興味を持てなかったのだが、こうして本人を目にすると、その真面目な人柄ゆえ、素朴で控えめな文しか書けなかったのだろうと想像がつく。……返事を返した事など一度も無く、それでもずっと、三年もの間、折に触れては文を寄こし続けて来た人。
「あの……御文、今までありがとうございました」
するりと口から出ていた。
「えっ」
「止められていたとはいえ、唯の一度も返事をしなかった事……大人気なかったと思います。これから入内する身では、やはり御文は差し上げられませんけど……お恨みにならないでくださいね」
「いえ、その……っ」
左兵衛佐はかっと耳まで顔色を染める。
「とと、とんでもない。俺は、……その、言葉が聴けただけで、本当に、嬉しく……」
そのまま口ごもって口元を袖で押さえ、俯いてしまった。にやにやと笑いながら兄が肘で突いたが、左兵衛佐は俯いたまま動かない。
椿は面映ゆい気持ちでその様子を眺め、微笑んだ。
「姫さま、誰か来ますわ」
御簾の側に控えていた安芸が、バサバサと風で揺れる御簾を巻くりあげて、外を伺っている。
「なにやら、急いでおられるようです。見てきますわね」
安芸が出て行く間にも、すぐにその足音は椿の耳にも届いた。ひどく乱れた足音。すぐに御簾の外に人影が現れ、安芸と重なる。
「あっ、お待ちを……!」
安芸の言葉など全く聞く間もなく、その人物は御簾を捲り上げてしまった。
几帳の中、驚いて椿は身を竦ませる。
几帳の前に座っていた兄も驚いて振り返り、左兵衛佐はさっと立ち上がって身構えた。現れた人物は、息を切らし、鋭い目で局の中を凝視していた。整った優美な顔立ちの……恐らく常であれば爽やかな気配の公達だろうと思われる。しかし今、その顔色は赤く、怒りに満ちているようで、椿には唯の恐ろしい人に見えた。
誰も言葉を発さず、椿はただ瞬きを繰り返していると、左兵衛佐がようやく身動きして、その場にひざまずいた。
「春宮……!」
椿は耳を疑った。
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