二十五.



「おや、これはこれは、春宮がこちらにいらっしゃるとは! なんとなんと」

 ひょっこりと顔を覗かせた父右大臣はそれは上機嫌に顔をほころばせて局の内に入って来た。春宮は苦虫を噛み潰したような顔を背け、今にも舌打ちしそうである。

 引き連れてきた女房達は、狭い局に入りきらず、皆下らせる事になった。

「なんだ三の姫、父はいろいろと心配して損をしていたようだなぁ」

 にこにこしながら几帳の方を向いたが、椿は返す言葉も無くただうつむいていた。

「春宮、このように忍んでおいでにならずとも、春宮さえその気になってくれるのであれば、いつでも三の君は入内の用意がありますものを。やはりその前に姫の様子を確かめておきたいのが心情というものですかなぁ」

 春宮はとうとう舌打ちを漏らした。椿はいたたまれない思いで唇をかみ締めうなだれる。

「俺はその気はない……。もう何べんも言ったと思うが」

「いやいや、春宮ともあろうお方がこんな局までわざわざ忍んで起こしになるとは、ただ事とは……」

「俺は! そこの右馬の頭に用があっただけだ!」

「いやぁ、しかし姫とも少しは言葉を交わされたでしょう、どうですかなぁ、姫は少し恥ずかしがり屋ですが、慣れればまた闊達に」

「右大臣! 俺はもう用は済んだ! 帰る!」

 春宮はだんっと椿のほうまで響くような足音を立てて立ち上がった。

 ちょうどそこへ、暗くなった御簾の外に灯りが揺らめいた。

「灯をお持ち致しました」

 ゆらゆらと揺れる手燭の灯りを袖で覆うようにして、安芸が佇んでいる。外の風は強く、火は今にも掻き消えてしまいそうだ。

「おう、お入り。春宮も、せっかく灯も届いたのです、いま少しお座りになられて……」

 御簾のうちに安芸が入ってきて、几帳の側の大殿油へ近づく。

「いいや、俺は帰る」

 春宮はそのまま大股で局を横切り、外へ出ようとした。その時。強い風が吹いて、がたがたと激しく格子が鳴った。御簾がばさばさと音を立てて捲くれ上がり、ガツッと鈍い音を立てた後、安芸に被さるように落ちてきた。

「きゃぁっ!?」

「安芸!?」

 手燭の火を庇うようにしてしゃがみこんだ拍子に、安芸はバランスを崩して几帳にぶつかった。几帳が椿のほうへ倒れ掛かってくる。

「あぁっ! 姫さま!!」

「きゃ……!」

 椿は思わず顔を背け、片腕で身体を庇った。

「……?」

 しかし、几帳は倒れては来なかった。

「大丈夫か!?」

 はっと顔を上げると、春宮が。

「……」

「……」

 春宮は几帳の下に滑り込み、支えるようにして膝を付いていた。

 お互い呆然と見詰め合って、数瞬。

「あ……っ」

 春宮は慌てて顔を背け、几帳を戻して立ち上がった。

 椿もはっと我に返り、顔を背けて袖で隠す。しかしもう、遅い。

(見られた……!)

 はっきりと、顔を見られてしまった。

「失礼する!」

 春宮はほとんど駆け出すようにして行ってしまった。

「大丈夫か、姫や」

 右大臣が心配そうにおろおろと様子を伺っている。

「は、はい……。あ、安芸は」

「安芸は大丈夫です、姫さま! 申し訳ありません……、私……!!」

 几帳のうちに滑り込んできた安芸は、目に一杯涙を溜めて、心配そうに椿の手を握った。

「だ、大丈夫? 三の姫……」

 兄も心配そうな声を上げている。

「大丈夫です」

 椿は精一杯微笑んで、安芸の手を握り返した。

「御簾が落ちるとは……」

 隆文は簀子縁に回り、上を見上げて手を伸ばした。

「長押(なげし:御簾を垂らす横木)が腐っていたようです……。ここは、私と安芸で片付けましょう。皆様はお戻りください。……何人か手伝いを寄こしていただけますか」

「う、うむ。そうだな、では頼むぞ隆文。高成に左兵衛佐殿も、弘徽殿の母屋の方へ」

 右大臣がそそくさと外へ向かい、それに兄と左兵衛佐も続く。

「こちらの不手際で、申し訳ありません」

 椿が主としての口上を述べると、右大臣は「良い良い」と言って笑った。

「また明日にでも伺うよ。取り立てて用事でもないし、みんなで押しかけてしまって、疲れただろう。今日はゆっくりお休み」

「じゃあね、三の君」

 続いて出て行く右大臣と兄の後、ふと左兵衛佐が足を止め振り返った。

「……」

 椿の居る几帳をじっと見つめるまっすぐな視線。視線が几帳を突き抜けて椿自身を見ているようで、椿は恐ろしくなって顔を背けた。



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