二十六.



 管弦の琴の音は、どこまでも清らに内裏に響き渡り、冬の乾いた空気を凛と震わせた。居合わせた人々の感嘆と賞賛の声が、椿の耳にまで届く。しかし自分で奏でた琴の音が、椿には夢うつつのようで耳に入っては来なかった。

「……椿?」

 隣で同じく琴を弾いていた姉の咲子姫が不審げに椿を見ている。はっと我に返り、慌てて嵌めたままの爪を外そうとすると、姉は眉をひそめて囁いた。

「春宮が、もう一曲ご所望ですわ。お返事なさい。……爪を嵌めて」

「あ……」

 顔を上げると、御簾を垂らされた向こうに春宮の姿が透けて見える。表情までは見えないが、きっとこちらを見つめているのだろう。

 本当ならば今日、隣には春宮の寵妃・宣耀殿様もいらっしゃるはずだった。結局女御様は里下がりしてしまい、春宮の機嫌はすこぶる悪いらしいと聞いている。しかし管弦の宴だけは予定通りに執り行われ、椿はいたたまれない思いで琴を奏でていた。

「……では、僭越ながら、もう一節」

 椿が弦を鳴らす。

 御簾も几帳も隔てた向こうからの視線が、身に突き刺さるようで、椿は冷や汗を流した。

 あの晩、春宮と面と向かって顔を合わせてしまった。男と顔を合わすことなど今までに無かったのだ。春宮の激情の篭った瞳が、忘れられない。

 そしてもう一人。……今日もこの宴の末席に膝を並べている、左兵衛佐も。彼の絡みつくような視線も椿はずっと感じている。

「……っ」

 慣れない宴に、長い演奏が続く。気を抜いたら倒れてしまいそうだった。

 しかしやがて演奏が終わって宴も終盤に近づくと、人々の歓声のなか、椿はようやく退出を許された。



 ようやく重い十二単を脱いで、与えられた局で一息ついていると、御簾の向こうに気配があった。

「椿や」

「……父上さま」

「やぁ、今日はご苦労だったね」

 椿が顔を上げると、さっさと御簾のうちに滑り込んできた右大臣は上機嫌ににこにこと笑っていた。

「まぁ、お一人でいらっしゃいましたの? 安芸」

 安芸に声をかけると、心得たように席を用意する。

「やぁ、すまんね」

 右大臣はすぐに腰を下ろし、堪えきれないといったような笑みを扇で隠した。

「どうかされましたの? 良い事でも?」

「うむ」

 右大臣はさっと扇を閉じると膝を打った。

「とうとう決まったのだ椿。 よくやった! とうとう春宮が首を縦に振ったんだよ」

「……」

 何のことか、分からなかった。

「……え……」

「決まったのだよ、お前の春宮妃入内だ! いやぁ、良かったなぁ……、良かった」

 父の台詞の最後の方は涙混じりだった。

「……そんな」

 あの晩、春宮と顔を合わせてしまったあの晩には、春宮はただ一途に宣耀殿女御だけを想っていて、とても椿の入る隙など無いように思えた。

「まさか、だって、宣耀殿様の事は……」

「ふむ、なんでかしらんが宣耀殿女御も里下がりしてしまったし、喧嘩でもされているのかもしらんな。しかし、それはそれ、お前はそのようにあちらの気配ばかり伺っていなければならんような身ではないのだ。堂々としなさい」

「……でも」

「このことは今上も、なにより春宮ご本人も、お認めになられた。ようやく正式に決まったんだよ」

 父は優しげに目を細めて、椿を見た。

(……そんな)

「春宮も今までは頑なに話を聞こうともしなかったというのに、今日の管弦の後は大人しく話を聞いてくださってな。いつものように春宮妃入内のお伺いをたてたところ『そうだな』と一言おっしゃられて! やはりお前を後宮に来させたのは大正解だった。お前を気に入らない公達などいないんだよ!」

 言いながら興奮していくのか、父の語気は段々と強まっていった。

「椿や、どうした、嬉しくないのかね。喜んで良いんだよ」

「……ええ、そうですわね。……あの、何やらあたくし、混乱していて。……少し、外してくださいますか」

「そうか、そうだな、思うこともあるか」

 父は膝を払って立ち上がると、うんうんと上機嫌に頷いた。

「すぐにも良い日を占わせるからな。楽しみにしていなさい」

「……は、い」

 消えそうな声しか、出てこなかった。

(……決まった)

 望んでいたはずだった。姉のいる帝に入内するのは嫌だ。春宮妃になることは、自分でも望んだはずの道だというのに。

「姫さま、まぁ、良かったですわ! 私、これからも精一杯お仕えさせていただきますわね」

 安芸も、満面の笑顔を浮かべて、擦り寄ってきた。

(……本当に、決まってしまった)

 ぽろりと一滴、熱いものが頬を伝った。頭に浮かんだのは、いつも涼しげなあの面差し。

(……逢いたい)

 ただひとり、隆文の懐かしい澄ました横顔。青直衣を着て歩く姿。優美な物腰。時折みせる優しい笑顔。

(逢いたい、逢いたい)

 胸を突かれるように想いが押し寄せた。

「姫さま!? まぁ、姫さまがお泣きになるなんて……!」

 安芸は興奮して椿の手を握った。

「本当に嬉しいことですわ、姫さま。ずっとお望みだったんですもの、よかったですわ」

 安芸は勘違いをしている。椿は首を横に振り、握られた手を額に押し当ててた。

「……安芸……っ」

「……。姫、さま?」

「貴方の兄さまに、逢いたいわ……」



<もどる|もくじ|すすむ>