二十七.
安芸は特に疑いを抱いてはいないようだった。すんなりと、その日の夜には隆文が尋ねるよう手はずを整えてくれ、退って欲しいと頼むと直ぐにさがっていってくれた。
「姫……。参りました」
低くかすれた声がかすかに響く。人目を忍んで訪れた隆文は、冷えた夜気とともにするりと局に入ると、すぐに後ろ手に妻戸を閉めた。
「隆文……」
胸が締め付けられるようだった。
何か話すことがあるわけでもない。ただどうしても、逢いたかった。
「こちらへ……」
言うと、隆文は控えめに几帳の側へ寄って膝を折り、一礼した。
「……もう少し、こっちへ」
隆文は膝を進めるそぶりだけして、その場から動かない。椿はじれたように身を捩った。
「ねぇ隆文……こっちへ来て」
顔を上げた隆文の答えは冷たいものだった。
「出来ませんね」
と、一言。
ただ優しい言葉をかけてくれるだけで良かった。昔のように、兄のような優しさで微笑みかけて欲しかった。昔のように……抱き上げてくれなくてもいい、ただ目と目を合わせて微笑み合えたら……。
しかしこの夜の隆文は、冷たく椿の願いを撥ね付けた。あの日「好きだ」と言ってくれた言葉さえも、「過ちだった」と言い切って、椿を近づけようとはしなかったのだ。
「ではあたくしが、行けばいいのね」
そう言って、無理やり几帳から出た椿を、隆文は呆れたように見上げる。
「困った姫ですね……」
叱られても良いと思った。昔は、少しおてんばな事をしては隆文に小言を貰う事などしょっちゅうだった。もうここ何年も、そんなことは無かったが、椿にはそれさえ懐かしく思える。
続く沈黙に椿が耐え切れなくなった頃、隆文はふっと微笑んだ。
「……美しく、なられましたね」
ようやく貰えた優しい言葉に、椿の胸が高鳴る。しかし胸を躍らせる間もなく、隆文は冷えた言葉を口にした。
「……春宮もきっと、お気に召されることでしょう……」
「……っ!」
隆文はすでに、局を立ち去ろうとしていた。
「待ってよ……っ」
声に涙が混じる。
「行かないで……っ」
幼い頃に戻ったような口調で、椿は泣いた。こちらに背を向けたまま、隆文は立ち止まる。
「これでもう、逢えないの……? あ、あたくしが呼んだら、いつだって来てくれるって、言ったわ……。隆文」
「ご用とあらば。……駆けつけますよ、姫。ただしこのような深夜に、二人きりで会うというわけにはいきませんが」
そう言って、隆文はもう妻戸に手を掛けていた。
「待って。……隆文、……待って」
椿にはもう、言葉を止めることが、出来なかった。隆文はきっと苦しいとしか思わない。罪深い言葉だと、分かっていたのに。
「あたくし、貴方の事が好きよ……。きっとずっと、女御になっても、ずっと……好きよ……」
「……っ」
振り向いた隆文の表情。まるであの日の春宮のような激情が篭った瞳で、苦しげに歪んだ、一瞬。昔のように、抱き上げて貰えるのではないかと……、
「姫」
錯覚した。
「……お忘れください」
平静な、いつもの表情に戻った隆文は、すぐに踵を返して、妻戸の向こうに消えた。
(これで、もう)
椿はただ、閉められた戸板を見つめていた。
きっともう、こんな逢瀬は、二度とない……。
<もどる|もくじ|すすむ>