二十九.



 帝の一行が姿を見せると、直ぐに椿達は渡殿の端に寄り、道を空けて頭を下げた。

「おや、ばれてしまっていたのかな」

 落ち着いた低い男の声は、どこか楽しげな笑いを含んでいる。

(これが、帝の声……)

 伏せた顔を扇で隠したまま、椿は耳を済ませた。

「奇遇ですね、三の姫? これから桐壺へおいでですか」

 話しかけられた椿は扇を揺らすようにしてわずかに頭を振った。促されて安芸が一歩前へ出る。

「はい。本日よき日に桐壺へ招かれること、本当に嬉しく思っております……」

「おや」

 帝は驚いたような不服そうな声を漏らした。

「随分とかしこまっているんだね。弘徽殿は貴女の姉だし、私は貴女の兄でもあるんだよ。もう少し打ち解けてくれて構わないんだけれど」

 安芸はおどおどと椿を振り返った。

「……」

 椿は何も言わず、扇で顔を隠したままじっとしている。

「……あの、ありがたく勿体無いお言葉ですけれど、あまりに恐れ多い事ですので……」

 つかえながらも何とか安芸が言うと、帝は「はは」と笑った。

「あの弘徽殿の妹君が、そんなに気弱とは、おかしいね。……貴女は私の女御にと、話もあったのに」

「……!」

 椿はぎょっとして伏せていた目を見開いた。じっとこちらを見つめていた帝と、一瞬視線が合いそうになり、慌てて目を伏せる。帝の女御になる話など、父・右大臣と隆文以外、誰にも知らせていないというのに。安芸にさえ。

「……?」

 安芸はきょとんとして話が飲み込めていない様子だが、後ろに控えている女房達はお互い目配せしあっている。

「あの時平を口説いてしまうとはね。一体、どんな手を使ったんです」

 にっこりと、笑む気配。

「……」

 安芸はどうにも応えることも出来ず、今度こそおろおろと椿を振り返っている。

「時平はこと宣耀殿女御の事になると、頑固でね。右大臣の口説きになびく気配など無かったというのに。あなたが後宮へ着てから、こうも簡単に折れてしまうのが意外でね」

「……」

「……不思議に思っているんです」

 じっと、帝が見つめている気配を感じる。笑っているのか、値踏みしているのか、表情を見ることは出来ない。……見ても、読めないのかもしれない。

 椿はじっと扇で顔を隠したまま、動かずにいた。

「三の姫、あなたはとても優秀な姫だと聞いていますよ。琴も、手習いも。……漢字なんかも、出来るのかな?」

(……漢字)

 なぜ、こんな事を聞かれるのか。いぶかしんでいると、安芸がぱっと表情を輝かせた。

「まぁ、はい。姫さまは、難しい漢文も、少しはお読みになれるんです。さすがに書くのは、ほんの少しだけですけれど」

 得意げに言ってしまってから、恥らうように、顔を赤らめる。

「……そう」

 帝は安芸に微笑みかけ、それから椿に視線を戻した。

「姫。……時平の事、よろしく頼みますよ。歳はあなたより少し上ですが、まだまだ、子供ですから」

「……」

 また、椿が頭を少し揺らして頷いて見せると、帝は満足げに笑って去っていった。

 去り際に、帝の後ろに控えた一行に紛れて、隆文の姿が、目に入った。

(……え……)

 その横顔は、一瞬すれ違っただけでもはっきり見て取れる程青ざめ、引きつっていた。



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