三十.



 淑景舎(しげいさ:桐壺)の母屋へ移った椿は、すぐに女房達を下らせ、安芸と二人きりになった。

「二人では広すぎるわね」

 しかし椿は話好きの女房達と一緒に居るのが、昔から好きではない。極力、側仕えの者は減らして、ほとんどはお気に入りの安芸と二人で居ることが多かった。

「本当に。これからは毎日こちらにお仕えするんですのね……」

 安芸はきょろきょろと落ち着かない様子であちらこちらの妻戸を開けたり格子を上げたりしている。

 椿は並べられた調度の中、二階厨子の奥の文箱に手を伸ばした。……先日の、あの夜の折に春宮が落としていった、宣耀殿女御宛の文がそのまま入れてある。あの時、とっさに掴んだせいで皺になってしまった料紙を伸ばし広げ、何度も目で辿った。手跡は、左兵衛佐のものと酷く良く似ている。……帝は、漢字は書けるかと、椿に尋ねた。

(……疑われているんだわ)

 椿はため息を漏らした。左兵衛佐の手跡は、何度も文を貰っているから良く知っている。漢字交じりの文も、この程度ならば書ける。そして、春宮と宣耀殿女御の仲を裂いて一番得する人間は……。

「……あたくしだものね……」

 ぼそ、と他人事のように呟いた椿には、そんな疑いはどうでもよい事の様に思えていた。誰が何のためにこんな文を出したのか、本当に左兵衛佐と宣耀殿女御が恋仲なのか、そんな事はもう、どうでも。……ともかく椿が入内する事は、決まったのだから。

「この文は、春宮に返さなくちゃ……」

 丁寧に折りたたんで、脇に寄せる。もう一度文箱の中を探って、椿は薄桃色の文を取り出した。はねかずらの……それは隆文に貰った、最初で最後の、恋文。この文は確かにここにある。あれは、確かに夢ではなかったのだから。

 なんども繰り返し読んだその文を、もう一度だけ、と大切に広げた。

(……?)

 違和感が、あった。

 ――はねかづら 今する妹を 夢に見て 心の内に 恋ひ渡るかも――

 何度も何度も繰り返し読み返した、歌。文。手跡。薄墨の掠れ具合。料紙に焚き染められた、ほのかな香。

「……っ」

 違和感が。

 どくりと心臓が脈打ち、椿は思わず顔を背ける。考えては、いけない。考えたくない。そんな事は、考えられない。椿は文をたたもうとして上手くたためず、いらいらと指先で弄んだ。

「姫さま?」

「!」

 椿は上手く畳めないままの文を文箱に押し込み、慌てて振り返った。

「なあに? 安芸」

「……どうかされましたの?」

「ううん。何も」

「あの……」

 安芸は椿の顔色を伺うようにおどおどと首をかしげた。

「姫さま、帝への入内話なんてありましたの?」

「え、……ああ」

 椿はふっと息をついた。

「父上さまと帝のご冗談よ。……本気のお話ではなかったわ」

「まぁ、それにしても、帝には咲子様がいらっしゃるのに……。酷い冗談ですわ」

 安芸は眉をひそめ、口を尖らせている。椿はふふ、と笑った。

「そうね、あんまり性質の良い冗談では無かったわ。……でももう、いいのよ。あたくしは、春宮への入内が決まったんだもの」

「そうですけど……」

 まだ安芸は不服そうに口を尖らせていて、椿はそんな安芸が可愛らしく思えた。

「いいのよ……もう」

 もう一度言って微笑むと、安芸もつられたように笑った。

「そうですわね、私、気にしすぎるんです。姫さまはもう、春宮女御になられるんですものね。あの、姫さま?」

 安芸はふっと声を弾ませて椿の顔を覗き込んだ。

「春宮が、今夜にも姫さまにお会いになりたいそうですわ。さっき、春宮付きの女房の方から、言伝てがありましたの」

「……え?」

「ふふ、春宮は宣耀殿様だけに一途だと聞いてましたのに、やっぱり姫さまの事はお気にかけてらっしゃるんですわ。入内の前に、一度ひっそりと、会ってお話がしたいんだそうです」

(……そんなはず、無いわ)

 椿は喉まででかかった言葉を飲み込んだ。あの夜の春宮は、椿の事など目にも入らない様子だった。少なくとも、面と向かって顔を会わせてしまった、あの瞬間までは。

「……」

「姫さま?」

 春宮の意図が、読めない。

「……分かったわ」

 どのみち、春宮には件の文を返さなければいけない。人を使って渡せる代物ではないし、都合が良いとも思えた。

「じゃあ、日が落ちるまでに用意、お願いね」

「はい!」

 安芸は嬉しそうに辺りを片付け始めた。



<もどる|もくじ|すすむ>