三十一.



 もう時刻は酉の刻(夜六時過)、すっかり日も落ちたというのに、外は明るい。昼過ぎから降り始めた雪が、うっすらと庭を覆って、白い灯りを灯していた。しんと冷えた空気の中、火桶(ひおけ:火鉢)の爆ぜる音が響く。

 長いことうつむいて、沈黙していた春宮が口を開いた。

「俺はどうかしてたんだ」

 几帳の向こうで、頭を上げる気配があった。

「貴女の事は嫌いじゃない。だけど俺は桜君が……桜君だけが、好きなんだ。ごめん」

「……」

 そんな事は、初めから分かっている。いまさら、わざわざこんな事を言うためにやって来たのだろうか。椿は拍子抜けするような思いがした。

「だけどもう取り消せない。一度口にしてしまったら、取り消せないんだ」

 春宮はひどく真剣な面持ちで、椿を見つめている。椿は扇の陰でそっとため息を漏らした。

 真正直に自分の思いを打ち明ける姿が、椿には少し眩しすぎた。

「不幸にはしないと……約束する。愛することはできないかもしれないけど、不自由はさせないし、世間の噂になるような、あなたをないがしろにするような真似は決してしない。本当に……ごめん」

 春宮という身にありながら、何故ここまで心を砕いてくれるのだろう。この人の元へ入内する事は、喜ばれこそすれ、何も申し訳なく思われる事など、無いはずなのに。何か春宮が不憫な気がして、椿は首を振った。

「……お気に、なさらないで下さい。あたくし、気にしませんわ。それでは、直ぐにも桜君様を後宮にお戻しになられてはいかがでしょう」

「いや、それが……」

 春宮は少し気不味そうに顔を背け、深い息を落とす。

「喧嘩しちまったままで……」

「まあ」

 椿は再び漏れそうになるため息を飲み込んだ。

「桜君も、例の文の事、一向に言ってくれないから、つい俺も意地になっちまって……」

「……それであたくしの入内の事、お認めになられたんですのね」

「あ、いや」

 春宮はしまったと言う様に慌てて何か言おうと口を開きかけ、すぐに沈黙してしまった。図星なのだろう。しばらく思案した後、話題を変えるように「そうだ、」と切り出した。

「その、件の文、この間ここに置いて行っちまったと思うんだが」

「ああ……、安芸」

 椿は控えていた安芸を振り返ると、文箱を持ってくるように命じた。

(……あ、でも)

 隆文に貰ったあの文を、押し込めたままになっている。

(あの文……)

 椿はざっと冷や水を浴びせられたように青ざめた。昼にも一瞬過ぎった、悪い妄想が広がる。

 隆文は、必ず椿を春宮に入内させると言っていた。そして、宣耀殿女御の元へ届いた文。文の内容を春宮は信じなかったけれど、結局はその文が原因で椿は入内することが決まった。文は、どこか……そう、あの薄桃色のはねかずらの文にどこか……似ていた。筆跡も違う、料紙の質も違う、しかし薄墨の付き方と……わずかに沁みた、香が……。

(だめだわ!)

 そんな、恐ろしいことを、考えてはいけない。そんなはずは。一瞬くらりと眩暈がして、椿は思わず床に手を着いた。

「俺も調べさせてるんだけど、……結局何も分からないままなんだ。後宮の奥深くにまで文を届けると言う事は、やはり……内通者がいたんだろうな。兄上は……」

 春宮は眉間に寄せた皺を親指で押しあげるような仕草をした。

「右大臣や、……貴女の事も、疑ってる。でも右大臣はそんな人柄じゃないし、俺は貴女の事も疑っては居ない。そんな風には、見えない」

「……」

 春宮が確信に満ちた様子で言ってくれているが、椿はまだ血の気が引いたまま、返事をする事も出来なかった。

「姫さま」

 安芸が不審そうに椿を見下ろし、首をかしげた。ひざまずいて、

「お取りしますわね」

 と、文箱を、開けた。

「駄目!」

 椿はばっと文箱を取り上げ、開きかけていた蓋を閉じ合わせた。

「え」

 きょとんとした様子の安芸に、椿は慌てて微笑みかけた。

「あ、……その、見られたくない文も……あって……」

「まぁ、すみません、私ったら。……御前ですものね」

 安芸は春宮の方へちらりと視線をやり、最後の方はふふ、と声を潜めて笑った。

(……胃の腑が、痛い)

 きりきりとした痛みの中、椿はなんとか頷いて、文箱を探った。指が震えて、上手く動かない。

「恋文?」

 不意に、春宮が悪戯めいた声をかけてきた。

 ぎくりと椿は身を竦ませる。

 胃の痛みがいっそう、強くなった。何か応えなければいけない。いけないと分かっているのに、言葉が出ない。

「……っ」

 額に脂汗がにじむのが自分で分かった。

(駄目だわ。そんなはずは無いのだから、だから落ち着かなくちゃ……)

「左兵衛佐以外からも、やっぱり文は貰ってたんだろうな」

 春宮が申し訳なさそうに言う。

(……痛……っ)

「そう言えば、蔵人(くろうど)達も、三の姫が来るって日は、そうとう浮き足立ってたな」

 春宮に他意は無かっただろう。しかし蔵人という言葉を聴いた瞬間、隆文の顔が椿の脳裏にありありと過ぎった。

『心配要りません、姫。この私が、必ず春宮を動かして見せます』

(……っ!)

 胃の腑に鋭い差込みが走り、目の前の景色がすぅっと闇に飲まれて行く。

「きゃぁっ、姫さま!?」

 近くに居るはずの安芸の声が、やけに遠く聞こえた。



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