三十二.
「三の姫!?」
がくがくと肩を揺すられ、椿ははっと目を見開いた。
ほんの一瞬、気を失ったのかもしれない。悪い妄想に取り付かれた、一瞬。
気づけば春宮の姿が目の前にあって、椿は肩を抱きかかえられていた。
「あ……」
「大丈夫か、三の姫」
慌てて視線を逸らし、扇を探そうと手を伸ばしたが、床に落ちていて届かなかった。……もう今更、この人に顔を見られた位で慌ててはいけないのかもしれない。しかしやはり面と向かうのも落ち着かず、袖で顔を覆おうとすると、春宮は椿の手首をぐっと掴んだ。
「な……」
「この、文」
握り締めたままの文。椿は混乱し、自分が手にしていたのものが何だったのか、一瞬分からなかった。
「こんなに握ってしまっては、台無しだろう」
春宮が文を取ろうとする。それは薄桃色の料紙の……。
「や……」
しかし安芸にしたように奪い取るわけにもいかない。相手は春宮なのだから。何をする事も出来ないまま、椿はただ身を強張らせる。……何事も無いことを祈りながら。
春宮は文を畳もうとして、動きを止めた。
「……?」
見ないように気を使ってくれたようだが、やはり折り返した面の文字が少しだけ、覗いている。そしてほのかに掠めた、香の匂い。
「これ……。いや、でも」
「あの、あたくし、自分で畳みますわ。こちらへ」
声が酷く不自然に震えてしまった。差し出した手さえ震えている。ただ具合が悪いせいだと、春宮がそう思ってくれれば良い、……どうか。
しかし春宮は椿の表情と文を見比べて、じっと文を凝視した。
「開いても、良いか」
春宮の声は酷く低く、冷たかった。あの晩、椿の元へ踏み込んできたあの時のように。
「……っ」
胃の痛みが急速にぶり返す。しかし気を失うわけにはいかなかった。
「いいえ。春宮にお見せするようなものでは」
外は雪で底冷えがするというのに、脂汗が、じっとりと滲む。
「……」
春宮の目はどこまでも冷ややかに椿を見下ろしていた。
「俺はここに置き忘れていった件の文を、何度も何度も、穴が開きそうなほど繰り返し見たんだ。この、貴女の持っている文は、どこかその文に似ている気がする。見せてくれないか」
(ああ……)
絶望に飲まれそうになる。しかし椿はかろうじて首を横に振った。
「何故?」
「こ……恋文を、覗かれるのは……」
きりきりとした痛みの中で、絶え絶えに答える。
「俺は、貴女を妻にする身なんだぜ?」
先ほど、一途な思いを打ち明けて、謝罪の意を向けていた、優しげな春宮の姿はもうそこに無かった。抱きかかえていた椿を床へ放し、ひったくるように文を取り上げ、立ち上がる。
「名前が無いな……」
すぐに広げた文をまじまじと見た。
「はねかずら、か……。貴女の昔なじみか? 誰だ」
「……っ」
椿は唇を噛み締め、きっと睨むように春宮を見上げた。
「……じゃあ、いいさ」
春宮ははねかずらの文と、宣耀殿女御宛の文を取り上げて、さっさと桐壺を出て行こうとする。
「お待ちください! どちらへ」
椿は必死の思いで叫んだが、春宮は振り返ることなく部屋を後にした。
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