三十三.
(なんてこと……! いいえ、でもまだ)
椿は悪い妄想を振り払うように首を振った。
(隆文が、そんな事を……する訳……)
しかし頭を振ったところで、一度取り付いた考えは打ち消せはしなかった。むしろ悪い妄想でしかなかったそれが、確信へと変わっていく。
隆文ならば、文の一通や二通、容易く宣耀殿女御の元へ届けることも出来るだろう。春宮の目に届くように、落としたと見せかけることも出来る。左兵衛佐の筆跡も知っていたし、……そういえばあの時御簾が落ちて春宮と対面した事さえ、隆文ならば容易く仕組めるのだ……。
(……!)
ではもし本当に隆文が仕組んだ事として、事が明らかになったら……? もう、隆文は内裏に上がることなど二度と出来ないだろう。来年には五位蔵人にあがれると言っていた、そんな事は露と消えるだろうし、父右大臣に知れれば右大臣家にすら出入りできなくなるかもしれない。それどころか、咎人(とがびと:罪人)として都を追放されるか、悪くすれば、流刑、死……。
(嫌……!)
目の前が真っ暗になり、再び遠ざかろうとする意識を、腕に爪を立てて必死に引き止めた。
「姫さま、姫さま!? どうされましたの?」
安芸がおろおろと椿の顔を覗き込み、袖を握っている。
「酷いお顔色ですわ、直ぐに薬師を……」
「いいえ」
椿の口から、自分でも驚くほどに落ち着いた、低い声が漏れた。脇息にしがみつくようにしていた身体を起こし、居住まいを正す。
「春宮は、どちらへ向かわれたのかしら」
「え? あの、分かりませんけど、おそらく帝のところでは……」
「そう」
椿は足に力を込めて、立ち上がった。
(追わなくては)
「姫さま!? あの、具合は……」
「大丈夫よ、安芸。それより、あなたの唐衣(からぎぬ)を貸して頂戴」
「え、あの……」
おろおろと座ったまま椿を見上げている安芸を落ち着かせるように、椿はゆっくりと口を開く。
「帝のところへ行きます。あたくしのこの格好では、怪しまれて、直ぐには近づけないわ。貴女の女房装束が必要なのよ」
椿は身分の高さゆえ、普段は正装をしていない。この姿で帝の側近くへ寄ろうとすれば、すぐに警護の者に止められて、連れ戻されてしまうだろう。
「で、でも姫さま、どうして帝のところなど……」
「いいから、早く」
ぐずる安芸の腕を引いて立ち上がらせ、装束を取り替えた。
「それから……太刀が、欲しいわ」
「姫さま!?」
「持っていない、わね」
「何をおっしゃってますの!?」
「いいわ、局に行けば護身用の小太刀くらいあるでしょう」
「姫さま!」
安芸が悲鳴のような声を上げた。
「護身のため、念のためよ。一人で向かうんですもの」
「でも、そんな、物騒な……っ。御前へいらっしゃるなら、なおさら」
「安芸、お願い。大きな声を出さないで。あなたにはあたくしの振りをして、ここに居て欲しいのよ」
「えぇ!?」
「誰か来ても、もう休んでいるからと言って、追い返して頂戴ね」
「そんな……」
安芸は椿の羽織った唐衣の袖をひしと掴んだ。
「安芸……」
椿はその手をそっと包むように握って、微笑みかけた。
「お願い、行かせてちょうだい。……あたくしにだって、自分の意思で動きたい時があるのよ……」
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