三十四.



 女房装束を身にまとい、もし尋ねられた時の言い訳にと、それらしく帝のための上掛けを手に持った。静々と渡殿を渡りつつ、帝の居わす清涼殿に近づくにつれ、椿の緊張は否がおうにも増していく。恐れ多くも帝を欺いて、その側へ近づこうというのだ。ちらちらと雪の舞う寒い夜。指先も足先もすでに感覚は無くなっていたが、そんな事もほとんど忘れかけていた。

 いくつ目かの渡殿の角を曲がったとき、釣燈篭の灯が大きく揺れ、唐突に目の前に人影が現れた。

「っ」

 肩が触れそうになり、椿は思わず息を呑む。しかしその人影は、見知った姿かたちをしていた。

「失礼、女房殿」

 低く響く声。声を聴いただけで、涙が込み上げそうな思いに囚われる。

(隆文……っ!)

「……!?」

 隆文は一度通り過ぎようとして、すぐにこちらを振り返った。

「……まさか」

 隆文は一瞬、酷く驚いた顔をしたが、すぐに周囲の気配を確かめると、椿の手を握った。そのまま椿の手を引いて、近くにあった塗篭(ぬりごめ:物置)へ身を隠すようにして引き入れる。ぱたりと後ろ手に妻戸を引き閉じると、椿に向き直った。

「椿姫……」

「……」

 椿はただ隆文の姿を見つめていた。なにを言えばよいのか。言いたい事が多すぎて、直ぐには言葉にならなかった。ただただ恋しい思いと、疑惑を問いたい思いとが、椿の中で交錯する。

「まさか、私は夢を見ているのか……」

 ぽつりと漏れた隆文の言葉に、椿は大きく首を振った。

「いいえ、隆文。夢ではないわ。会えて、良かった。あたくし、あなたに確かめた……」

 最後まで言うことが出来なかった。

「姫……!」

「!」

 気づいた時は痛いほどに、抱きしめられていた。強く薫る馴染んだ香が、椿の身体を痺れさせる。

「もう、お会いすることは無いと、思っていました……」

「……えっ」

「姫。あなたのことです、もうお気づきになられたのでは……?」

「な、にを」

 察しはついた。しかしそれを、口にしたくは無かった。認めて欲しく無かった。

「私の仕組んだ、謀(はかりごと)です」

「……っ」

(ああ……)

 認めて欲しくは、無かったのに。

「どう、して……」

「それは」

 椿を抱きしめる隆文の腕に、いっそう強く力が篭った。

「口にしなければ……?」

 身動きできない腕の中で、椿はわずかに首を振った。……聞かなくても分かる。それはただ、椿の幸福だけを願う、隆文の一途な思いゆえ。

(愚かだわ……! あたくしは、隆文にこんなことまでさせたく無かった……!)

 しかし口には出せず、椿はただ強く隆文の胸元の布地を掴んだ。

「姫、そのお姿は……。これから、どちらへおいでになるのです」

 椿はぎくりと身を竦ませた。……春宮が、帝へあの文を見せてしまうその前に、なんとかして引き止めたいと、考えていたのだ。

「と、春宮の、お召しで……。帝もいらっしゃる、清涼殿へ……お忍びで、来るようにと……」

 とっさに口をついた苦しい言い訳に、しかし隆文はふっと、安堵の吐息を漏らしたようだった。

「……そうですか。春宮は、姫の事を憎からずお思いです。……宣耀殿女御への思いが強いのはご存知の通りですが、大丈夫。時が、解決するでしょう」

「……」

 ほっとしたような隆文の声に、椿は酷く苛立った。

「た、隆文は……」

「私はこれから、都を出ます。まだ帝も春宮も気づいてはおられません。しかし事が露見するのは時間の問題でしょう」

「そんな……っ!?」

「初めからそのつもりだったのです、姫。姫の入内が決まったら直ぐに、都を発とうと」

「だ、駄目よ、隆文。隆文はいつもあたくしの近くに居て……! あ、あたくしが呼んだら、いつだって来てくれなくては、駄目……!」

 腕の中、あんなに焦がれたぬくもりに包まれているというのに、椿は急に寒さを覚えた。

「何か、何か方法があるわ、あの文さえ、文さえ取り返せたらきっと……っ」

「いいえ、姫」

 隆文は椿を落ち着かせるように髪に手を差し入れ、そうっと撫でた。

「姫。このような企みをせずとも私は、姫のご結婚が決まった時には、都を出るつもりだったのです。……昔から」

「……昔、からって……」

 思わず見上げた隆文の目は優しげで、幼い頃からいつも椿を包んでくれる、春の日差しのような暖かさを湛えていた。

「姫が、裳着をなされた頃からです。……私にはとても、耐える自信がなかった。椿姫が女御として後宮でときめく姿や、一流貴族の北の方となられる姿を、見守る辛さに耐える、自信が」

「……っ」

「……私は、弱いのです」

 なんと言ったら良いのか。何を言えば良いのか。ただ椿の目に込み上げた熱い感情が、流れ落ちる。

「じゃあ、じゃあどうしてあんな文を寄越したの!? どうして、あんな……、あの文さえ、無かったら……!」

 はねかずらのあの文は、椿にはたった一度だけ、胸をときめかせた恋色の文。そして恋しい人を遠ざける、過ちの文。あの文さえなかったら、こんな苦しい想いに気づくことさえ無かったのかもしれない。

「……一度だけ、夢を見ました。それは儚い夢に終わりましたが……。昨年、今上が私を五位の蔵人にしてやろうと、仰せられた時に。私は、身に過ぎた夢を見たのです。……姫、あなたを得ることが、出来るのではないかと……」

(ああ……)

 それが現実の事ならどんなにか。

「しかし時は、私の夢など待ってはくれませんでした。……姫、やはりあなたは私の手の届かないところへ行ってしまわれた」

「……望んでなんか、なかったわ……っ、あ、あたくしは」

 隆文は椿をあやすように髪を撫で、目元に溜まった涙をぬぐった。

「……お会いできて、よかった。もう行かなければ」

 懐かしい香りが遠ざかり、椿の周りにふっと冷えた夜気がまとわりつく。

「待って隆文! 本当に行ってしまう気なの!? だ、駄目よ! 許さないわ……っ」

「姫も、あまり主上をお待たせする訳にも行かないでしょう、早く、行ったほうが良い」

「あたくしの事なんかより……っ」

 隆文がふっと眉をひそめる。それは怒っているのに優しい瞳で。

「早く、お行きなさい」

「あ……」

 まるで子供の頃に戻ったような。幼い自分を叱ったような声音で……椿にはとても、逆らうことが、出来なかった。



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