三十五.
清涼殿への足を早めながら、椿は何度も後悔した。どうして引き止められなかったのか。どうして。
こうなっては一刻も早く春宮の手から文を取り戻し、父を説得してでも隆文を都に留めておきたい。たとえ結ばれることは無くても、側に居て欲しい。ただ側に居てさえくれたら……。
『私は、弱いのです』
隆文の言葉が蘇る。辛いと、言っていた。
(でもそれでは、あたくしの気持ちは……っ!?)
振り払うように椿は首を振った。とにかく今は、春宮を止めなければならない。
迷いの無い足取りで清涼殿へ踏み込んだ。控えている女房達が一瞬いぶかしげにこちらを向いたが、椿は澄ました顔でそのまま奥へと進んでいった。さも、帝に呼ばれて上掛けを届けに来たのだという風に。幸い誰にも、呼び止められはしなかった。
奥の間に入ると、今まさに春宮が、主上の居られる御簾の内に入ろうとしているところだった。
「お待ちを……!」
声をかけると、ぎくりとした表情で春宮が振り返る。あるはずのない姿を見た、という表情。
「さ、んの姫……?」
御簾を持ち上げた姿勢のままの春宮の元まで、重い装束を引きずって歩み寄る。
「ご無礼を、お許しくださいませ、春宮、それに主上……」
膝を折って御簾の前に伏した。
「何だって……?」
御簾の内で身動きする気配がある。椿がじっと伏していると、ぱちりと扇を鳴らす音が響いた。それが合図となったのか、控えていた女房達が皆揃ってさがって行く。その場に残されたのは、春宮と椿、それに主上だけ。
「本当に三の姫なのかい」
御簾がぱっと捲り上げられ、中から人の気配が現れる。椿は恐れ多さに冷や汗を流して伏したまま、身動きできなかった。
「……はい。ご無礼をどうぞ、お許しくださいませ」
「……顔を、あげて」
椿はごくりと喉を鳴らしてから、覚悟を決めて顔を上げた。まっすぐ上げた視線が、帝のそれとぶつかる。帝はとても春宮と似た顔立ちをしておられた。しかし歳が上なせいか落ち着いて、春宮よりは随分穏やかな人に見える。
「驚いた」
帝はまじまじと椿を見つめたあと、くっと声を殺して笑った。一度笑い始めたら止まらなくなったのか、顔を背けたまま、肩を揺らして笑っている。
「さすが、あの人の妹だね。肝が据わっているというか何というか。そんな格好までして、ここへやってくるとは」
椿はかっと頬を染めた。貴族の姫には考えられない、常軌を逸した行動をしていると、自覚はある。……それでも、止まれなかった。
「春宮に、お願いがあって参りました」
「……」
春宮は先ほどから、帝とは打って変わって厳しい表情で椿を見おろしている。
「その手にお持ちの、文」
椿は春宮の方へ向き直り、一瞬、春宮の右手に握られた文へ視線を移した。
「あたくしには、大切な文なのです。……返しては、頂けませんでしょうか……」
「……っ」
春宮の目がかっと見開かれた。
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