三十六.
「この文は、大事な証拠だ! 渡せない」
興奮のせいか頬を赤く染め、春宮は椿を睨むように見下ろしていた。
「……なんの証拠になりましょう。春宮もご覧になられたでしょう? 筆跡も何もかも、違いますわ」
引くわけには、いかなかった。内心は恐ろしさに震えていても……決して面には、だすものか。
「いや、それでも文字の大きさと、墨の付き方……それにどこか、雰囲気が……似てる」
椿はふっと、大仰にため息をついて目を伏せた。
「それはただの、恋文ですわ。……春宮に入内する身のあたくしが、未だにそのような恋文に囚われているとお思いなのかもしれませんが……今は何も無い、ただの昔の思い出なのですわ、春宮。これ以上、まさか主上のお眼まで汚すような真似は、したくないのです」
そこまで言って、春宮を見上げる。
「……っ、三の姫……」
「そう、それじゃ、見られたく無いだろうね。そんな個人的な文なら」
怒りのせいかかすかに震える、文を持った春宮の手を、やんわりと抑えるようにして帝が言った。
「返してあげたら」
「兄上!」
「こんなところまで乗り込んでくるんだから……よほど、大切な文なんでしょう。ねぇ、三の姫」
つ、と首筋を冷や汗が伝う。椿は頭を垂れた。
「……はい」
「兄上! 見れば分かる。この二通の文は……」
「時平。無粋は止めたほうが良い。この人はお前の妻になる人なんだから」
春宮は帝に抑えられていた手をばっと振りほどくと、叩きつけるように文を落とした。
「三の姫! その文の差出人は誰だ!」
「……言えませんわ」
椿は落ちた文を拾い上げるとそっと畳んで胸元に仕舞い込んだ。ほっと吐息が漏れる。
「俺の妻になるんだろ!? 相手の名くらい」
「春宮に憎まれたとあっては、この世に生きてはいられません。……言えませんわ」
「……っ!」
一歩踏み出して何か言おうとする春宮を遮るように、帝がふと前に出て屈んだ。
「三の姫」
顔を覗き込んで、首をかしげる。
「あなたは蔵人の隆文と親しい?」
「……っ!?」
全身が、ざっと総毛立つ。
何か答えようとして口を開くが言葉が出ず、何度も唾を飲み込んだ。顔色も失って、冷や汗が流れるばかり。
「……あ、の」
「いや、彼は右大臣家に縁(ゆかり)だろう。しかしあまり貴女の噂を聞かなくてね。大臣(おとど)はしきりに貴女の話をしていたけれど、彼にはこちらから尋ねてもあまり返事が返らなかったから。……私は彼と懇意にしているつもりなのだけど、姫はどうかと思ってね」
「……いいえ。ほとんど……邸では、会いませんわ……」
不自然に、言葉が途切れた。それでもう、充分だった。疑いが隆文に向くには、充分。
「あいつなのか!?」
春宮が叫ぶ。絶望に飲まれそうになりながら、椿は必死に首を振った。
「……いいえ……」
しかし、もう。
(……あたくしのせいだわ……!)
もう春宮を止められる術など、思いつかなかった。
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