三十七.



「どうなんだ、三の姫!」

 あまりの剣幕に、掴みかかられるのではないかと、椿は思わず庇うように身を竦めた。

「……」

 ただうつむいて、首を横に振ることしか、出来ない。

「……っ、くそ、もういい! 本人に聞けばいいだろ、誰か……」

「待て時平!」

 人を使って隆文を呼び出そうとした春宮を、帝が制した。

「彼に悪い、止めておけ」

「な……! どういう意味だよ、兄上!?」

「そのままの意味だ」

「……あの文の差出人かもしれないんだぜ!?」

 春宮は頬を紅潮させ、帝にまで掴みかかって行きそうだった。

「落ち着け」

 椿の前にしゃがみこんでいた帝は、すいと立ち上がると御簾の前に円座(わろうだ:座布団)を並べた。しかし春宮は身動きせずに立ったまま、睨みつけるように兄を見下ろしている。帝はふぅと息をついて、自ら円座へ座った。

「三の姫はかねてより、お前の妃にとの声が高かった。これは、こちらとしても申し分の無い、有り難い申し出だ。……いいか、右大臣はあの人柄だから、お前が我侭を言っても大事にならずに済んでいたんだ。しかしいつまでも他の摂関家筋の貴族が黙っている訳が無い。右大臣の姫を受け入れないとなれば……その地位を巡って朝廷に波乱が起きるぞ。……三の姫の春宮妃入内は、このまま成立させる必要があるんだ。余計な問題を起こすな」

「……余計なって……」

 帝の声はどこまでも一定だった。感情が見えない、落ち着いた柔らかな物腰で、椿には遠い政(まつりごと)の歪みを、ただ淡々と述べている。

「隆文は右大臣家の家司だ。詮議すれば累は右大臣にも及ぶ。彼を問い詰めて、万が一にも右大臣を敵に回すのは得策じゃない。たとえ彼が白でも……黒でも」

 そこまで言って、ふいに帝は椿へ視線を向けた。

「……」

 椿は唇を噛み締め、ただじっとうつむいている。

「怪しの文が後宮に紛れ込んだのはけしからん事だが……、わざわざ騒ぎ立てる程の内容でもない。お前の気が向いたのだから、結果的には良かったとさえ、私は思ってるよ」

「ふ、ふざけんなっ! 俺は最初から入内なんか認める気は無かったんだ! あんな文さえ無かったら俺は……! あ、あの文の差出人だけはどうしても突き止める!」

「時平」

「兄上、綾音は泣いてたんだ、何を聞いてもただ、『ごめんなさい』しか言えないで……っ」

 ずきり、と。椿の胸に刺された様な痛みが走った。綾音というのは、おそらく桜の君の諱(いみな:本当の名前)。桜の君の、涙ぐんだ頼りなげな姿が椿の瞼裏に蘇る。

「脅されてたんだきっと。どんな手を使ったのかしらないが、そうに決まってるんだ! それなのに俺は三の姫の入内を認めちまって……! 綾音を裏切るような真似して……っ。せめて、文の出所だけでも掴まないと気が済まない!」

 ずきずきと胃の腑まで鋭い痛みが差し込んだ。

(そうだわ、隆文はきっと、桜の君にまで……! なんてこと……)

「落ち着け、時平!」

「いやだ、絶対に詮議してやる! 右大臣にまで及ばなきゃいいんだろ! 公にならないように上手くやるさ!」

「時平……」

 春宮はもう兄帝の言うことなど聞きそうに無かった。今にもこの殿舎を飛び出して行きそうな剣幕で、帝もひどく困った様子で嘆息している。

(このままでは、いけない……!)

 椿はすっと立ち上がると、ずるずると後退りして庇の近くにまで寄った。帝と春宮、二人の不審げな視線が椿に向く。すうと息を吸い込むと、叫んだ。

「お許しくださいませ、春宮、全てあたくしが謀ったんですわ!」

「……っ!?」

「なんだと……っ?」

 不審げな春宮の目に険がこもる。椿は緊張で倒れてしまいそうになる身体を、両足で必死に支えた。

「あの文も、あたくしが出させた事ですわ。あたくしが一人で仕組んだのですわ」

「三の姫、何を馬鹿な事を……」

 帝は呆れた、という言うように首をすくめている。

「深窓の姫君である貴女がそこまでするとは、とても思えませんね」

「……っ」

(……信じて、もらえない)

 それでもどうしても、信じてもらわなければいけない。……どうしても、隆文が捕まるのだけはどうしても……嫌だ。

「あたくし……あたくし、春宮妃になりたかったんですわ……っ、お許しくださいませ、どうか……」

「三の姫……」

 うめくように呟いた春宮は、椿をきつく睨んでいるが、まだ信じあぐねているようだった。

「もう、春宮妃など、決して望みません。二度とこのような真似はしないと、誓いますわ……!」

 椿は両手を首の後ろに回すと、髪を束ねて左手に掴んだ。右手には懐にしのばせていた小太刀を掴む。

「これでどうか……お許しを……!」

小太刀の鞘(さや)を口に食むと、一息に抜き放った。

「三の姫!?」

 大殿油(おおとなぶら)の灯りがゆらりと刀身にあたって、椿の白い顔をぼんやりと映していた。

 こうするのが、きっと一番良い方法。これで、全てが白紙に返る。隆文の罪も、春宮妃入内も、何もかも。父の悲しげな顔が一瞬過ぎったけれど、もう椿にはこれ以外、方法が浮かばなかった。

「姫、何を……っ」

 帝が手を突いて腰を浮かせる。

「お寄りにならないで!」

 叫んだ拍子に、咥えていた鞘が落ちて床を叩き、乾いた音が響く。音を合図に、椿は力任せに刃を髪に当てた。

「さん……っ」

 ざく、ざく、ざく。思ったようにすんなりとは、刃が通らない。それでも、だんだんと頭が軽くなっていく、感覚があった。



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