三十八.



「やめ……っ」

 帝が駆けつけた時にはもう――すっかり、髪の重みは無くなっていた。全身が急に軽くなって、ふわふわと重心が定まらず、落ち着かない感覚に襲われる。

(こんなに、軽くなるのね……)

 足元にうねる髪の束をぼんやりと眺める。それはほんの一瞬前まで自分の身体の一部だったものだが、それにしてもつやつやと波打って美しい。

 蒼白な顔をした帝が、椿の方へゆっくりと手を差し出してきた。僅かに切り残した長い髪房を、すくう様にして掴む。

「……なんて、事を……」

 椿は膝を折って床に手を突き、額を擦り付けるようにして頭を垂れた。

「……お許しくださいませ……」

 何も、感じてはいなかった。痛みも何も、感じない。ただ身体が軽くなって……、罪も入内も全てが消えて、軽くなった気がする。

 それまで微動だにしなかった春宮が、ふらりとよろめくようにして一歩踏み出した。

「三の姫……貴女は、そこまでして……何を、庇って」

 切れ切れに言いかけた時、庇の方に衣擦れの音がして、人の近づく気配がした。

「誰だ! 誰も呼んではいないぞ! 寄るな!」

 帝が激しい剣幕で叫んだ。

「私ですわ!」

 帝の怒声さえ物ともせずに、さっさと室内に入ってくる。紅梅が、辺りにふっと漂った。

「三の君の姿が見えないのですわ! まさか、こち」

 そこまで言って動きが止まった。顔を上げた椿と視線がぶつかる。

「……ひっ」

 息を呑む音。叫びを飲み込んだ弘徽殿の姉の表情は、見る間に引きつって青ざめていった。

「……っ」

 すぅっと後ろへ倒れかかるところを、慌てて駆け寄った帝がなんとか抱きとめる。

「……三の君……! どうして、あなた……」

 帝の腕の中、もがくようにして姉は椿を見下ろす。

「お姉さま……ごめんなさい。……あたくし、もう春宮妃にはなれませんわ……」

 全てが御簾の向こう側の出来事のようで、椿には、自分の声さえ遠くで響いているように聞こえた。

「……どうして……? 自分で、切った……の……?」

 怯えきった猫のように震えている。いっそ姉が可哀想にも思えたが、椿には頷くことしか出来なかった。

「……はい」

 姉の真っ白な頬に、ぼろりと大粒の涙がこぼれた。

「あっ、咲子姫っ!?」

 帝の腕の中、姉はがくりと気を失ってしまった。髪を切るということはそれほどまでに……衝撃的な事だったのだ。

「……姫っ……」

 帝の声がやけに遠い。しばらくの間帝は姉の身体を抱きしめていたが、やがてこちらを振り返って叫んだ。

「三の姫、貴女の腹心の女房は何処っ? 淑景舎にいるかい?」

 安芸の顔を思い浮かべながら、椿がゆっくりと頷くと、帝はすぐに春宮へ視線を向けて早口に命令した。

「時平、お前淑景舎にいる三の姫付の女房をここへ呼べ。……なるべく人目を避けて、お前が呼びに行くんだ。それから、女房と一緒に三の姫を弘徽殿の局に移す。三の姫に袿を被せて……」

 呆然としていた春宮がはっと顔を上げて頷く。

「三の姫を局に移したら……そうだ、右馬の頭を呼んで、彼も、弘徽殿へ」

 兄・右馬の頭のぼんやりとした顔が脳裏を過ぎると、こんな時だというのに、自然と椿の唇の端に笑みが浮かぶ。

 部屋を出て行こうとした春宮が、椿の前で止まってひざまずいた。袿を手にとって、椿の頭から被せかける。

「三の姫……貴女は……」

 顔を合わせた春宮の目は、真っ赤に充血していた。



<もどる|もくじ|すすむ>