三十九.



 弘徽殿の一室で、駆けつけた兄と対面した。顔を合わせたとたんに絶句して泣き崩れた兄と、真っ青な顔を袖で隠したまま今にも失神しそうな安芸と三人、すぐに狭い牛車に押し込められて、どこかへ運ばれて行くようだった。

 ぎ……ぎ……がたんっ

 酷い牛車の揺れ。雪のせいで思うように車が前へ進まないらしい。芯から冷え込む夜気が簾の隙間から入り込み、がちがちと奥歯が鳴った。

「ごめんなさい、……兄上にまで、ご迷惑を」

 兄は丸い眼をはっと見開いて、それから悲しげに椿を見つめた。

「迷惑なんて……」

 椿の手をそっと握って、首を振る。

 思えば、御簾も隔てず兄と顔を合わせる事など何年ぶりだったか。……久しぶりに見せた姿の醜さに、きっと兄は酷くがっかりした事だろうと、椿は切なくなった。

「迷惑なんて思ってない。……だけど……分かんないよ、椿。僕には、おまえが分からない。……なんで? 春宮は……気に、沿わなかったの?」

 椿は目を伏せると首を横に振った。

「恐れ多い事を……。そのような事、ありませんわ」

「じゃあ、なんで」

「……」

 椿は吐息を漏らすと、物見(ものみ:窓)の方へ顔を逸らした。

「兄上、……あたくし、尼寺へ行くのかしら……?」

「……! 椿」

 手を握る兄の手に力がこもった。

「行かないよ。……邸へ、帰るだけだ」

「……邸へ?」

「お前は急な病にかかったんだ。……高貴な方々にうつしては大変だから、邸で療養するんだよ。……入内は、延期」

「……!」

 入内の話は、まだ、無くなった訳ではないのだろうか。

「ねぇ、おまえがどうしても入内が嫌なんだったら、そう言ってよ。僕だって協力するからさ、もう、こんな無茶な事……っ」

 大粒の涙が兄の頬を伝って、ぽたぽたと握られた椿の手まで濡らした。

「こんなのって、無いよ……椿」

 顔を伏せて肩を揺らしている。……傷を負った獣のように見えた。自分のした事は、こんなにも人を傷つける行為だったのかと、今更ながらに思う。

 ……しかしそれでも今、椿の心に強く浮かぶのは唯、ひとりの人の面影だった。

「……兄上、あたくしは……ただ」

 ただ、側に居て欲しい人が、いる。居てくれるだけで、良いのだ。

「……何も、お聞きにならないで。ただ、あたくしのお願いを聞いてくださる?」

「お願い?」

「……隆文を……。京を出るって言っていたわ。引き止めて欲しいのですわ。すぐにも」

 口にすると急に、焦りが生じた。隆文はあの時すでに、急いでいた。あれからもうどれくらいの時刻が経ったのか。

「……お前、何をこんな時に」

「外に馬の気配がするわ。邸まで先に駆けさせて。早くしないと行ってしまうわ……!」

 警護の者が跨る馬の気配は数頭、牛車を囲むようにして付いて来ている。

「ねぇ安芸、あなたなら聞いているでしょう? 隆文はもう出立しているのかしら」

 車に乗り込んでから一言も発さず、ただ牛車の隅で震えている安芸を振り返った。

「安芸……?」

 詰め寄ると、安芸はようやく口を開いた。

「姫さま……。兄さまは何を……?」

「え?」

「そのお姿は……兄さまのためですの……?」

 椿はじれたように首を振った。

「いいえ! 違うわ。そんな事よりも、隆文が都を出ること、あなたは聞いているの? もし知っているなら、行き先を教えてちょうだい」

 しかし安芸は怪訝そうに眉根を寄せて椿をじっと見ている。

「……安芸?」

「おそらくもう、お殿様(右大臣)のお邸にはいません。……ただこの雪ですから、まだ都に留まっているかと……」

「場所は? 心当たりはないの?」

「……それは……」

 安芸はふっと目を逸らしてうつむいた。

「言えませんわ……」

「な……っ」

 その時、牛車が大きく揺れた。

 牛車を囲む馬達とは別の、忙しなく駆ける馬の気配が、近づいていた。



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