四十.



 馬は内裏の方角からまっすぐこちらへ駆けて来ているようだった。

「なんだろ? ……うちに用なのかな……」

 牛車はもう右大臣邸の眼と鼻の先まで差し掛かっている。早馬が邸へ向かっているとなれば、ぼんやりした兄でもさすがに気にかかるのだろう。物見を引いて従者に声をかけた。

「ねぇ、あの馬は何処の使い?」

 馬にまたがった従者は手綱を引いて、直ぐに馬の踵を返した。

「すぐに確かめて参ります」

 しかし従者が早馬に近づいてもその馬の足は止まらず、ほとんど併走するようにしてこちらへ駆けてくる。

「なんだ、あれは。無礼だな」

 兄は怪訝そうに物見の外を覗いていたが、やがてハッと身を乗り出した。

「あれは……美季じゃないか!」

 そう言ったもう直ぐ後には、馬は牛車の隣まで駆けつけて、いなないて止まった。

「こちらの車は右大臣家の子息の方とか。高成! お前か!?」

 叫ぶ声は、確かに聞き覚えのある、左兵衛佐のものだった。

「ああ、美季、どうしたんだ、こんな夜更けに」

 兄は牛車に垂らしてある簾から半分身を乗り出して声をかけた。

「春宮よりの勅命でな、お前の邸へ向かうところだ」

「春宮の?」

「何だか知らんが……お前のところのあの生意気な家司……隆文といったか、あいつを呼びに行くところだ」

「え……隆文?」

 兄はぼんやりと繰り返して、それから椿を振り返った。先ほど椿の口からも隆文の名を出したばかりだ。……兄の視線は何か問いたげだった。

 椿はぐっと奥歯を噛み締めた。

(春宮はまだ……隆文を詮議するおつもりなの……!?)

 暑いとも寒いとも分からない、じっとりとした汗が椿の手の平に浮かぶ。

 自分が髪を下ろしてしまえば、全てが丸く収まると、椿はそう思っていたのだ。宣耀殿女御への怪しの文の出所は、春宮妃になりたかった自分の仕組んだ事。髪さえ下ろして出家してしまえば、もう妃など望みようもない。そうすればもう宣耀殿女御と春宮の仲を邪魔立てする者は居なくなる、それで……。

(それで、済むと思っていたのに……!)

「お前こそどうしたんだ、夜更けに。お前も宿直の最中に春宮に呼び出されていただろう、一体どうしたっていうんだ、今夜は」

「いや、その……」

「誰か乗せてるのか、女房か?」

 左兵衛佐の声が攻め立てるように問いかけてくる。兄は何度もこちらを振り返っては口ごもった。

「その、……妹が、急な病で」

「! まさか、三の姫か。……乗っておられるのか!?」

 兄は困った顔で何度もこちらを振り返った。

(……っ!)

 椿は安芸の手を握り締めた。

「ねぇ安芸、お願いよ。隆文は何処へ向かったの?」

「……っ、姫さま、それを知って、どうされますの?」

「……あ、あたくしは……、ただ、ただ隆文に側に居て欲しいの。何処へも行って欲しくないのよ……!」

「それは、どうしてですの? 姫さま、こんな、そんなお姿になってまで、それほどまで兄さまに執着するのは、……どうしてですの……っ」

 涙の混ざった声で叫ぶように言ったあと、安芸はふっと息をついて、唇を震わせた。

「兄さまが、お好きですの……?」

「……っ!」

 答えられないでいる椿を、安芸はじっと見つめ、それからふと目を伏せた。

「兄さまの様子がここのところずっと、おかしかったのには気づいていたんです。今日、兄さまは私のところへ来て……『姫を想うあまり、過ちを犯した』と。『追捕される前に都を出るが、出たらきっと姫が嘆くだろうから、支えてやって欲しい』と言って……。私は、まさか……」

「安芸……」

「安芸は、馬鹿です。ずっとお側にいたのに……っ。今の今まで気づかないで居るなんて。兄さまのお気持ちにも……姫さまの、お気持ちにも。こんな……」

 ぼろぼろと滴が湧き零れる。

「こんな……、だって、に、兄さまと……姫さまとは住む世界が、違うと……信じてたんですもの……こんな、まさかこんな事になるなんて……っ」

 感情が高ぶったのか、声が大きくなり、わなわなと肩が震えだす。

「安芸……安芸! 言わないで……っ!」

 椿はなだめるように安芸の肩を撫でた。

「……お願い、隆文が何処へ行ったのか、教えて……」

「ですから、それを言ったら、姫さまはどうされるおつもりなのです!」

 いつもおっとりとした安芸の口調とは思えない、強い物言いに、椿は息を呑んだ。

(安芸のことも、傷つけたんだわ……あたくしは……)

「……ごめんなさい、安芸。……後を、追いたいの」

 安芸がぎょっと目を見開く。

「後を、追うわ。お願い、教えて……。 あたくしの事を、哀れと思うなら……」



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