四十一.
「あ……哀れだなんて……っ! 姫さまは、姫さまはいつだって、私の誇りでしたのに……っ」
安芸は突っ伏して泣き声をあげた。ずきり、と刺されたように椿の胸が痛む。安芸はずっと、椿が春宮妃になる事を望んでいると、と信じていた。信じてそれを精一杯応援してくれていたのだ。それをいまさら……いまさら、六位の家司である安芸の兄のために、髪を、降ろしてしまった……。
「安芸……ごめんなさい。ごめんなさい……っ」
誇りとまで言ってくれた幼馴染の女房を、椿は欺いて……裏切ったのだ。
「でも安芸……お願い」
「……九条の……堀川に、叔父の住んでいた、今は使っていない潰れかけた屋敷があります。おそらく……」
「安芸……!」
椿は突っ伏したままの安芸の手を、ぎゅうと強く握り締めた。
「ありがとう……大好きよ」
耳元に囁いて、すぐに身体を起こす。狭い車内を滑るようにして、簾の前まで行き、一気に捲り上げて外へ出た。
「つ……三の君っ!?」
簾のまん前に居た兄がぎょっとして振り返った。馬にまたがったままの左兵衛佐も目を見開いて椿の姿を凝視している。
「……兄上、お願いがあります」
「馬鹿、お前、こんな外に……っ!!」
兄は椿の姿を隠すようにして、直ぐにも牛車の内へ押し戻そうとした。しかし椿はそれを避けて前へ出る。
「もう、こんな姿を見られてもどうということはありませんわ。あたくし、尼になるんですもの」
「何言ってるんだよ!!」
「お願いがあるのよ! 馬を、貸して。それと、乗り手を一人」
「三の君……っ!?」
兄は愕然としてただ椿の姿を見つめた。
「誰か! お願い、あたくしを乗せてちょうだい……!」
周りを囲む馬は、四頭。御所から付いてきている従者達は、こそこそと囁きあった後、頷きあって椿から目を逸らした。……右大臣の姫を馬に乗せるなどと、たとえ本人の願いであっても右大臣にばれれば首が飛ぶやもしれない、……断って当然の事だ。
椿は一人の公達をまっすぐ見上げた。
「……左兵衛佐さま!」
左兵衛佐はただ青ざめて椿を見下ろしていた。絶句したまま、唇を噛み締めて……手綱を握る手はわなわなと震えていた。椿に声をかけられて、はじめてびくりと身動きした。
「姫君……! あなたは、三の姫、か……?」
うなずいて、左兵衛佐を見据える。
「あたくしに、まだ情けをかけて頂けますか……?」
酷いことを言っていると、自覚があった。椿にはもう何年も恋文を贈り続けてくれた公達。兄の、親友。
椿はその兄の親友の気持ちまでも利用しようとしている。しかしもう他に、縋れるものなど無かったのだ。
「その……髪はどうされました」
「これは……」
椿は一瞬目を伏せて息を吸いこみ、顔を上げた。
「お慕いしている方の為に、切りました。どうか、無茶を承知でお願いいたしますわ、左兵衛佐様。あたくしをどうか……その方のところまで送ってくださいませ……」
一息に言って、深く頭を下げる。短くなった髪の先が肩を滑り落ちて揺れるのが、自分で分かった。このような姿を晒し、このような台詞を左兵衛佐に吐く自分は、なんと醜いことだろう……!
「……そ、それは……」
左兵衛佐が口篭っている。
「つ……三の君、やめろよ」
兄は椿の肩に手を掛けて身体を起こさせると、ぐっと強く押した。
「……!」
振り払おうとしたが、兄の力は以外にも強かった。
「牛車に入るんだ!」
「嫌よ……!」
「いい加減にしろよ! お前、どうしちゃったんだよ!? 落ち着けよ、今は邸に帰るんだ!」
「落ち着いているわ……! あたくしは、ただ……」
どうしても、隆文と離れ離れになるのだけは、嫌だ。しかし隆文は既に春宮に疑われていて、このまま都を出れば二度と戻って来ることは出来ないだろう。今追わなければもう、一生、会えなくなってしまうのだ。
「……いいわ。あたくし、歩いて行きます。沓(くつ)を……」
「三の姫」
左兵衛佐が馬から降り立った。
「分かりました、送りましょう」
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