四十二.



「お、おい、美季!」

 兄が慌てた様子で左兵衛佐の袖を掴んだ。

「いいんだ」

 左兵衛佐は落ち着いた様子で兄の手を押し戻す。

「昔……まだ、童姿で右大臣邸に出入りして、高成と遊んでいた頃……。三の姫、貴女のお姿を、何度かお見かけしことがありました。その頃から、俺は……貴女に、恋していたのです。……貴女はあの頃と、全く変わっていませんね」

「……」

 思いがけない言葉に、はっとして椿は左兵衛佐を見上げる。左兵衛佐はふっと目元を和ませた。

「お変わりが無くて、良かった。……それに、想い人が居るほうが、振られる身としてもしっくりきますよ。貴女のためだ、送ります」

 左兵衛佐が手を差し伸べてくれる。

「よ、美季!」

「うるさいな、俺はすっきりしたよ。これできっぱり諦められる。お姿も拝見できたし、こうして最後にお役に立てるんだからな」

「だ、だけどお前、それは……っ、だってほら、春宮のご命令はどうするんだよ! お役目で来たんだろ!?」

「ああ……お前のところの家司を呼びに行くだけだ。お前、これから邸に帰るんだろう? 俺の代わりにあいつを内裏に連れてってくれないか」

「だ、で、でもさぁ……」

 兄はおろおろと視線をさ迷わせて椿を見た。隆文が邸に居ないことに、さすがの兄ももう気づいているようだった。椿はすっと兄の視線をかわして左兵衛佐の手を握った。

「左兵衛佐様、このご恩は忘れませんわ」

「お、おい、三の君!?」

 慌てて引き止めようとする兄を、ゆっくりと振り返った。

「兄上。……見逃して……。お願い」

「……っ。で、でも……、父上が何て言うか」

 兄の顔色は真っ青である。

「……」

 祈るような思いで、椿は兄の目をじっと見つめた。

「……っ、お前……。わ、分かったよ……っ」

「……兄上……!」

「そ、その代わり、絶対ちゃんと帰ってくるんだよ!?」

 椿はにっこりと微笑んでうなずいた。



 椿は左兵衛佐に引き上げられて馬の背に跨ると、すっぽりと頭から袿を被った。手綱を持つ左兵衛佐の腕が椿の身体を抱えてくれているおかげで、寒さが少し和らぐ。思ったよりも不安定な固い馬の背に、椿はしっかりとしがみ付いた。

「姫、行き先は?」

「九条へ……」

「九条ですって!?」

 左兵衛佐は驚いた様子で聞き返した。九条といえば、都の外れ、羅城門の近く。とても上流貴族が住まっているような場所では無い。左兵衛佐が驚くのも無理は無かった。

「……姫、貴女の想い人というのは……」

「……。あたくし、身分違いの恋をしているのですわ」

 手綱を握る左兵衛佐の腕に力が篭った。身分卑しい男に、恋をしているという。……大納言家の子息である左兵衛佐に見向きもせず、尊い春宮への入内さえも振り切って、卑しい下人(しもびと)の元へ走ろうとしているのだ。

「姫……。貴女の恋は……」

 左兵衛佐の吐息が椿の耳元をかすめた。

「不幸を生みます……」

「……はい」

 椿はぐっと息を飲み込み、目を閉じた。

 父右大臣はもとより、兄姉、親戚、縁者、邸に仕える一族郎党、恐らくその全てに降りかかる不幸――。

 春宮、ひいては帝に背くとは、そういう事なのだ。入内を前に髪を切り、その上姿を消す等と言う事になれば、いくら父の権勢を持ってしても、帝への叛意(はんい)ありと取られることは必至だろう。

「ひと目会ったら、すぐに戻りますね?」

「……」

 椿は答えずにただ、こくりとうなずいた。左兵衛佐もうなずいて、手綱をさばく。

「よ、美季! 頼むぞ! 三の君をちゃんと連れて帰ってくれよ!」

「おう、任せておけ」

 左兵衛佐が威勢よく答えると、馬は身を切るような夜気を縫って走り始めた。



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