四十三.
もう、寒いという感覚さえ、良く分からなくなっていた。一体どれくらい馬に揺られているのか。東の空がうっすらと白んでいる。
「姫、着きましたよ。九条堀川です」
唐突にそう告げられた。寒さで強張って動かしにくい首を何とか動かし、椿は辺りを見回した。屋敷と呼べるような建物はとんど無く、ぽつぽつとあばら家が建っている。
「馬が……」
左兵衛佐が呟き、椿の視界にもその姿が映った。人を乗せた馬が、小路を横切っている。間違いない、あの姿は……。
「左兵衛佐様、あの、馬を」
長い間黙っていたせいか、声がくぐもって上手くでなかった。身体は芯から冷えきっているはずなのに、頭だけが熱い。ごくりと唾を飲みこむと、喉がひりひりと痛んで耳にまで響いた。
左兵衛佐は頷いて、馬を走らせた。
「おい、そこの者、止まれ!」
馬上の人が振り返る。それはやはり思ったとおりの人だった。
(隆文……!)
しかし隆文は直ぐに顔をそらすと、馬の腹を蹴り、逃げるように走りだす。
「あ、おい!」
左兵衛佐は慌てて追いかけたが、二人を乗せた馬の足は遅い。椿は叫んだ。
「……隆、文……っ」
声が上手くでない。焦りながら椿はもう一度叫ぶ。
「隆文……っ!」
馬上の人が振り返る。一瞬、目が合った。その目が驚愕に見開かれて、次の間には前を走る馬は前足を高く上げて止まった。
左兵衛佐が馬を進めて、隆文に追いつく。椿は馬が止まるのももどかしく飛び降りようとしたが、左兵衛佐に制され、先に降りた左兵衛佐に抱きかかえられて馬を降りた。
「姫、まさか貴女の想い人というのは……」
まだ抱えられたまま、耳元で尋ねられる。椿は「はい」と言ってうなずき、左兵衛佐の腕を押して、隆文の元へ走った。頭から被っている袿を掴んで走ると、降り積もっていた雪がばらばらと落ちる。
「隆文……」
「……姫……」
馬を降りた隆文は、青ざめた顔を引きつらせ、まだ信じられないというような表情を浮かべていた。
「……」
椿は隆文の着ている狩り衣の裾を掴んだ。目頭が熱い。見上げればそこに、隆文の顔があるのだ。
「もう、逢えないかと……思ったわ。……良かった……」
ただ驚いていた隆文の表情が、徐々に険しくなった。
「姫、どういうことです! 何故このような場所に!? 貴女はもう入内が迫った身だというのに、何故後宮を出たのです! 左兵衛佐殿、何故姫をこのような場所へ……っ」
左兵衛佐を激しく睨む隆文の狩り衣を、椿は引っ張ってこちらを向かせた。
「あたくしは、もう入内は出来ないわ。……入内なんてしないわ」
「何を……」
隆文は険しい顔のまま椿を見下ろした。
「何をおっしゃっておられるのです! もうそのような我侭を言える段階には無い。春宮も主上もお認めになり、日取りまで決まっているのですよ! そのような事、許されるはずが無い事くらい、お分かりでしょう! 早く、すぐにも後宮へ、お戻りになるのです!」
椿は頭を振ってうつむいた。
「戻らないわ……」
隆文は椿の両肩を掴み、椿の顔を覗き込むようにした。
「姫! 我侭を言っている場合ではないのです、直ぐに戻らなければ、右の大臣の進退にまで及ぶのですよ!」
椿は激しく首を振った。
「分かっているわ! あたくし、あたくしはそれでも……隆文が居ない都に居るなんて、嫌……!」
頭から被っていた袿を引いて、するりと肩を滑らせた。短い髪が、露になる。
「……っ」
隆文は目を見開いて、絶句した。
「……あたくしは、春宮の寵なんて要らない。……ただ、隆文が側に居てくれたら、良かったのよ……。……だから、置いていかないで」
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