四十四.
「……か……髪を……」
隆文が伸ばした手は、短い髪の先に触れただけで、むなしく空を掴んだ。
「……髪を」
そこで、言葉が途切れる。
「……切ったわ」
「……っ、どうして」
今にも泣き出しそうな表情で、隆文は椿を見た。そんな顔の隆文を見るのは初めてだった。
「……どうして……」
「それは」
椿は開きかけたくちびるを、噛んだ。春宮が、隆文を疑っていたこと。その疑惑を椿に向けさせ、罪を許してもらうために、髪を切ったこと。それは、隆文に言えば、傷つけてしまう行為に違いなかった。
「…………」
何も言えずに視線をそらすと、隆文の腕が伸びて、椿の身体を覆うように抱き寄せられた。
「……私の、為ですね」
「……っ」
顔を上げようとしたが、椿を抱く腕にぐっと力が込められて、身動きができない。
「……私は、なんと罪深いことを……。姫は、まだ十五なのに。……私の罪深い恋に巻き込んで、なんと、むごい事を……」
隆文の身体は小刻みに震えていた。
(隆文、……泣いて……?)
確かめようとしてもがいたが、隆文の腕にさらに強い力が込められて、叶わなかった。
「都へ戻ります、姫。どのような咎めを受けようと構いません。……最期まで、姫の側にいると、お約束します」
「ご、……ごめんなさい、隆文。……我侭を言って、ごめんなさい……。あ、あたくし、決して隆文に罪が及ぶようにはしないわ……! 命を賭けても、守るわ……!」
「いいえ、姫」
隆文の吐く息が耳にかかる。
「貴女はもう既に、命を……髪を、降ろされたのです。これ以上はもう、何も賭けてくださるな……!」
「……っ」
椿は何も言えず、ただ隆文にすがりついて、震えることしか出来なかった。
帰路は隆文の馬に乗せてもらい、左兵衛佐の先導で右大臣邸へと向かった。馬に揺られながら、椿は子供のように泣くのを、止めることが出来なかった。
「姫、どうされたのです。そのように泣かれては、目が溶けてしまいますよ」
まるで小さかった頃そのままに、隆文がなぐさめてくれる。
「だって、あたくし……」
隆文を引き止るためとはいえ、なんと恐ろしいことをしでかしたのか。
「……だって……」
今更ながらに、自分の犯した行為が恐ろしく、また、隆文の身に降りかかるかもしれない罪科が、怖くなったのだ。
「姫、心を安らかに。……もう何もお悩みにならないで下さい」
「だって」
隆文がこれほどまでに落ち着いているのが、椿には不安だった。まるで全てを受け入れる覚悟を決めてしまったかのように。
ぼろぼろと涙が止まらない。
「姫」
隆文の片方の手が手綱から離れて、椿を包み込むようにやさしく抱かれた。
「……山高み 下ゆく水の 下にのみ 流れて恋ひむ 恋は死ぬとも
(山が高すぎるので、私はその下方で静かに流れる水のように、ただ密やかに恋し続けましょう。たとえ恋しさに死んでしまうとしても)」
「た、隆文……っ? 死ぬなんて、そんな」
やさしい腕に抱かれているというのに、椿はすっと背筋が寒くなった。
「驚かせてすみません、姫。ただの、例えです」
「た、例えでも……嫌よ……。そんな……」
隆文の手が、優しげに何度も椿の短い髪を撫でた。
「ただ、ずっとお側に居る事を、お約束したかっただけです。たとえ、どんなに苦しくても、ずっと……」
隆文の言葉が、また胸に刺さる。『私は、弱いのです』と。そう言って離れようとしたあの時と、きっと同じ表情をしているのに、違いないのに。
「く、苦しめて……ごめんなさい。でも、でもあたくしは……」
この人を解放してやれる言葉を、椿にはどうしても言うことが出来ない。
「……近くあれば 見ねどもあるをいや遠く 君がいまさば 有りかつましじ……
(近くに居るのなら、例え姿が見えなくても耐えられるでしょうけれど、もし貴方が遠くへ行ってしまうような事になれば、この身はどうなってしまうか分かりません)」
どうしても。
ふっと、髪を撫でていた手が止まり、椿の頬を確かめるように撫でた。
「姫、……愛しています」
(……!)
このような状況で、思ってもみない言葉を聞かされて、椿は一瞬意識が飛んで真っ白になった。
「……なんて……?」
隆文の表情は見えなかったが、ただ、微笑む気配がした。
「淡雪の たまればかてに くだけつつ 我が物思ひの しげきころかな……
(はかなく消える淡雪も、いつしか高く降り積もり、崩れてはまた積もっていくように、私の想いも消えずに降り続けるのです)」
「……」
このまま。
隆文の腕の中、馬の背に揺られながら、このまま何処かへ消えてしまえたらいいと、椿は強く想った。
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