四十五.



 右大臣邸に着いたのは夜も明けきった頃だった。出迎えた兄と女房達に、押し込められるように椿は自室へと戻された。周囲にはたくさんの女房が控えて様子を伺って居るようだが、部屋の中に居るのは安芸一人で、ひっそりとしている。直ぐにも会いに来るだろうと思っていた父右大臣は、姿を見せなかった。

 隆文は、そのまま右大臣邸には戻らず、左兵衛佐に連れられて、春宮の待つ内裏へと向かった。『必ず戻ります。ご心配なさらず』と、言い残して。

(隆文……っ!)

 どうか、どうか春宮が隆文の罪にお気づきになりませんように、お許しくださいますように。椿は必死に祈った。

 隆文が桜君にした事は、決して許されることではない。春宮が推測していたとおり、隆文は桜君を脅していたのだ。全ては、隆文の陰謀で……それは恐ろしい罪を犯していたのだという事を、帰りの馬上で本人の口から聞いた。



「私は自分の身を偽って、あの方に何度も文をおくったのです。……お優しくて……少し世間知らずなところのある御方ですから……その内に一度、返歌がありました。まさか後宮にまで忍んでくることなど出来ないだろうと、安心していたのでしょうね。しかし私はその機を逃さなかった」

 夜のうちに隆文は桜君の寝所に押し入って、彼女を押さえつけたというのだ。そして

『これは、密通ですよ、宣耀殿女御。何も言い訳など出来ませんね。貴女自身が書かれた文も、この手にあるのです。……貴女は。女御の身でありながら男を通わせておしまいになられた。……どなたにも言い訳はできませんね』

 そう耳元に囁いたのだ。後は、眠り薬を嗅がせて女御を眠らせ、左兵衛佐と同じ香を焚き染めた単衣(ひとえごろも)を残して部屋を出たという。

「さぞ、怖い思いをされた事でしょう。御腹の子が春宮の御子である事に間違いは無いというのに……世間知らずで純粋なあの方は、すっかりご自分が不義を犯したと信じ込まれ、憔悴されて、春宮にも何も言い訳もなさらない」

 椿はにわかには信じられない話を聞かされて、恐ろしさに震えた。

「そんな、そんなの、嘘でしょう」

 本当の事を言っている、と予感していても、聞き返さずに居られなかった。

「あの方には、本当に申し訳ないことをしました。……姫、私は死罪になっても当然の、酷い男なのです」

「そんな」

 本当に酷い。桜の君のお気持ちを思えば、なんと酷い、許しがたい行為なのか。

「酷いわ……」

 それでもその時、椿の心に最も強く込み上げたのは、恐ろしい罪を犯してしまった隆文の身への、危惧だった。

「私の事を軽蔑されますか」

 隆文が犯した罪は、それは全て椿の身を案じたが故。それでもそんな事は言い訳にもならない、許しがたいものだ。

「軽蔑……するわ」

「……そうですね」

 隆文の声は落ち着いたままだった。

「でも……それでも。それでも、あたくしは貴方を愛しく思うわ……」

 いつの間に、こんなにも想いが膨れ上がってしまったのか、もう定かではない。しかしそれは、椿自身にもどうにも止め様もなかったのだ。



 今、椿に出来る事はただ、隆文の身の無事を願う事。最後に見た春宮は、酷く傷ついたような顔をして、目に涙を浮かべていた。激情のまま怒鳴っているばかりの印象が強かった方だが、それでも今はもう、あの春宮の情けに縋るしかない。

「姫さま……」

「安芸」

 安芸はすっかり憔悴しきった顔で、椿に寄り添うように端座している。

「……お顔色が悪いですわ、夕べは大変だったのですもの、どうか、お休みになられて下さいまし……」

 床の用意は既にされていたのだが、椿は全く眠る気になどなれなかった。

「ううん、いいのよ。……貴女の方が酷い顔色だわ。……もう、さがって休んで。ごめんなさい、あたくしのせいで、大変な思いをさせて」

「いいえ。姫さまを絶対に一人にするなと、大臣(おとど)のご命令なのですわ。ただ、慣れない者が側に居るのは嫌がるだろうからと、私一人が残るようにお命じになったのです。……大臣はまだ、私を信用してくださっているのですわ。私も……絶対に姫さまの側を離れようとは思いません」

「ま、まぁ……。でも、夕べからずっと寝ていないのではないの? そうだわ、あたくしの寝台で休んで。あたくしは、ここにいるから……」

 安芸は首を振った。

「そのような訳には参りません。姫さまこそ、本当に、休まれないとお身体に障ります!」

 強い口調で言われて、椿は目を見開いた。安芸の様子も、昨夜から常とは違っていた。泣き腫らしたのが分かる目で強く見つめられ、椿はゆっくりとうなずいた。

「安芸……分かったわ。じゃあ、お願い、あなたも一緒に……」

 もう何年かぶりに、子供の頃のように、椿と安芸は手を繋いで床についた。眠る事など出来そうに無いと思っていたのに、いつの間にか、意識は途切れた。



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