四十六.



 目が覚めると、既に日は傾いていた。

「お目覚めですか?」

 安芸の声がする。

「ええ……。安芸、あなたは? 眠れて?」

「はい。私も先ほど目覚めたところですわ。……姫さま、人を呼びますけど、宜しいですか?」

「え?」

「髪を……整えませんと」

「あ……」

 軽い髪。それは刀を押し付けて無理やりに切り落としたままで、不揃いの酷い有様のままだった。この姿を人目にさらしていたのかと思うと、改めていたたまれない思いが込み上げる。

「それにまずは、お食事をお召しあがりになりませんとね」

 安芸の声は優しかった。しかし何よりもまず先に気にかかっている事がある。

「あの……」

 安芸に言うのが、少しためらわれた。

「……隆文は、戻って、来ている……?」

「……」

 安芸はふっとため息を漏らした。

「はい。昼過ぎに戻ったそうですわ」

「ま、まぁ、良かった! 無事に戻っているのね……っ」

 椿は心底ほっとした。あのまま詮議され、捕らえられでもしたらと思うと胸がつぶれそうだったのだ。

「姫さま……あまり、兄さまの事を口にのぼらせるのは良くありませんわ。……それでなくとも、私以外の女房達はみな姫さまの様子を探ろうと耳をそばだてているんですもの」

 安芸は不機嫌そうだった。

「……そう」

 無理も無い。春宮妃入内を目前に髪を切ってしまうなど、乱心したと思われても仕方の無い行為だ。

「皆には、もう知れてしまっているのね……この、髪のこと」

「いいえ、まだそう多くの者には知られていませんわ。大臣が、必死に隠しているのです。恐れ多くも主上よりの仰せだそうですわ。この事は、なるべく外へ漏らすなと。それでも、姫さまの後宮からの急なお戻りを、皆いぶかしんでいるんですわ」

「そう……」

 しかし、もう幾人かにはこの姿を見られているし、いずれ都人の噂になるのも、時間の問題のように思われた。



 女房にざんばらだった髪を切りそろえて貰い、湯殿(ゆどの:お風呂)を使って、ようやく一心地ついたころには、日も暮れていた。すっかり遅くなった夕餉を取り終えたところへ、父の訪れがあった。

「椿や……起きて、いるかね」

 先導の女房も連れず一人で、弱々しい声。椿はにわかに罪悪感が込み上げて、冷や汗を流した。

「は、はい……」

「……入るが、良いかな」

「はい……」

 姿を見せた父は、一晩のうちに急に一回り小さくなってしまったかのように見えた。顔色は悪く、憔悴し切っている。……きっと夕べは、眠れなかったのだ。

 几帳の内までやってきて椿の姿を見止めた父は、そこで足を止めて「おお」と漏らした。知ってはいても、この姿を見るのは耐え難かったのだろう。

「なんと……なんと……」

「……」

 居たたまれなくなって椿は、床につきそうなほど深く頭を下げた。

「……申し訳もございません……」

「……っ」

 父は崩れるようにその場で膝を折り、ぼろぼろと大粒の涙を零した。

「おお……。私は、お前の気持ちなど何一つ分かってはいなかった……。まさかお前が、ここまで思いつめるなどと。椿や……思えばお前は昔から大人びてはいてもここぞという場面では気性の激しい娘だった。もう……もう、春宮にも主上にも、申し訳も会わせる顔もなく……私はもう、このままお前と一緒に出家しようと思う……もう……この家は、終いだ……」

 ぎょっとして椿は顔を上げた。

「ち、父上さま。それは」

「しかし何故だ、椿! この父には、お前がそこまで春宮を厭う理由が皆目分からん。……帝とどちらか選べなどと、お前を追い詰めた事は本当にこの父が悪かったと思っている。しかしそこまでお前が春宮妃を嫌がるなどとは、思ってもみなかったのだよ……」

「父上さま……」

 椿は切ない思いで、うなだれた父の頭を見つめた。

「申し訳ありません……あたくし、春宮を厭うなどと言うことは決してありませんわ……ただ……。ただの、我侭なのです……あたくし、誰とも結婚したく無かったんですわ……」

 嘘を、ついている。しかしそれ以上の事は何も言えなかった。

「……椿……そのような事を。何故初めに言わなかったのだ、何故……」

「申し訳ありません、父上さま。でもどうか、父上さまは出家などと言わないで下さい。どうか、お願いです。お姉さまの御為にも、どうか」

 父が失脚となれば、弘徽殿の姉は経済的な後ろ盾の無い女御となり、後宮で苦しい立場におかれてしまう。この家に住んでいる大勢の使用人たちもみな路頭に迷うだろうし、朝廷に波乱が起きることは必至である。

「しかし、私はもう主上にも春宮にも顔向けできぬ。もう出仕など……」

「父上さま……」

 椿がなんとか父の説得を試みようとしたとき、庇に人の気配がした。

「父上、こちらですか!?」

 兄の声だ。安芸が慌てて座を設けはじめる。

 姿を見せた兄はやはり酷く疲れた様子で、眠っていないようだった。

 兄は父の前に跪いた。

「父上、主上のお召しです。すぐに内裏へ」

「……いや、しかし私はもう……とても」

「重要な報せがあるとのことで、僕と父上と二人で直ぐに参るようにとの事です」

「……しかし……」

「頭の中将が直々に来てるんです。……行かないわけには」

「なんだって!?」

 蔵人所の重要職である頭(とう)が直々に邸に参じて伝える言葉には、帝の言葉と同じ重みがある。それは帝の勅命なのだ。

 父右大臣はもはやこれから流刑地に向かう咎人(とがびと)のように肩を落として立ち上がり、椿の部屋を後にした。



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