五.
椿は脇息にもたれて、ぼんやりと庭の植木を眺めていた。今日も天気は快晴。桜はすっかり散ってしまったが、涼やかな風が心地よい爽やかな陽気である。
「春の長日を恋ひ暮らし――か」
覚えていた歌の一節を、ぽつりとつぶやいてみる。
「あら……姫さま、どうされましたの? 恋の歌なんて」
「恋かぁ……してるのかなぁ」
「えっ」
安芸が驚いた顔でずず、といざり寄って来る。
「あの、姫さまがですか?」
お互い、九歳の子供とはいえ、恋の話は物語でも読んだことがある。身に覚えは無くても、興味深々なのだ。
「……はぁ、でも、駄目ね。あたくしは、春宮妃になるんですもの」
「あら……」
安芸は残念そうに肩を竦めた。
「でも、一体どなたに……」
「そんなの……決まっているじゃない。あたくし、他の殿方なんて、知らないもの」
椿はちらと安芸に流し目を送って、ぱらりと扇を開くと、扇の陰でため息をついた。こういう仕草が艶めいてみえるのを、椿は知っている。……実際は、姉の咲子姫を真似ているだけではあるのだが。
「……あの……ひょっとして……」
安芸は恐る恐ると言った口調で切り出し、辺りを何度も見回して人気が無いのを確かめた。
「兄さまですの?」
椿は無言でうなずく。
「……全然、遊びに来てなんてくれないんだもの……嘘つきね、安芸の兄さまは」
隆文が右大臣邸を出て行く話は結局あっさりと流れ、その後もこの邸の一隅で寝起きしているはずである。しかし蔵人の仕事や家司の仕事が忙しいらしく、まったくこちらへは姿を見せなくなってしまったのだ。
あの日、駄々をこねて引き止めたあの日以来、椿は一度も隆文の姿を見ていない。……噂だけは嫌と言うほど耳にするというのに。
「本当は、お仕事じゃなくて、色遊びで忙しいんじゃないかしら」
「ま、まぁ」
椿よりも七つ年上の十六歳の隆文は、女性達にとても人気がある。右大臣邸の若い女房のほとんどは隆文に気があるんではないかと椿は踏んでいる。特に、隆文が六位蔵人になってからというもの、そば仕えの女房達も安芸を除いてはみんな、隆文の噂話をしては高い声ではしゃいでいるのだ。「今日も参内するところを見ちゃったわ。やっぱり美しくていらっしゃるわねぇ」とか「つれないところがイイのよね」とか「本当にクールなんだから。宮廷に恋人でもいらっしゃるのかしら」「でも本当に素敵よね」などなど……。
気分が悪くなるので椿の目の前では噂話をさせないようにしているが、あまり姿を見せないこちらの対でもこの盛り上がりなのだから、いつも出入りしている北の対の方ではもっと凄いのだろう。それに、おそらく宮廷でも。
「……あの、兄さまは本当にお忙しいんです。なんだか、最近いつも疲れたって言ってて……昨日も具合が悪いって言うので、私、薬湯(やくとう)を用意しましたもの」
安芸がおずおずと言ったのに、椿はぱっと反応した。
「安芸、あなた隆文に会ってるの?」
「え? ええ……やっぱりたった二人の兄妹ですもの。最近こちらへ来てくれないので、私の方から顔を見に……行って……」
椿の形相が険しくなっていくのに気づいて、安芸は口をつぐんだ。
「あ、あたくしも……連れて行ってくれれば良いのに……」
「そ、そんな……いくらなんでも、兄さまのお部屋に姫さまをお連れするわけにはいきませんわ」
「……」
椿は口を尖らせて、つい、と目を逸らした。安芸はとたんにオロオロしはじめる。
「姫さま……」
結局椿は、困った安芸が泣き出してしまうまで、一言も口を利かなかった。それでも安芸が泣き始めると、慌てて「ごめんね」と謝ったのだけれど。
(全部、隆文が悪いんだから……!)
安芸を慰めつつ、椿は理不尽なことを思った。
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