六.
右大臣邸は途方も無く広い。小さな子供が一人、それも明かりの乏しい夜に庭に降りたりすれば、迷うのは当然のことだった。
(……どうしよう……)
まだ、そんなに遅い時間では無いはず。現にすぐ近くの渡殿には、人の気配がする。姿を見せれば、直ぐにでも誰か助けてくれるだろう。
(でも)
椿は敢えて身を隠すようにして、植木の陰を歩いた。隆文の部屋は北の対西表。大体の造りは把握しているし、安芸にもそれとなく聞いたから分かっている。
椿は隆文の部屋を目指していた。邸の中を行ったのでは直ぐに連れ戻される危険があるので、庭を通っているのである。
しかし思った以上に広い邸の広い庭は、椿をどんどん心細くした。生まれてからずっとこの邸に住んではいるものの、ほとんど自分の住まっている東の対から出たことは無かったのだ。
こんなにも広く木も生い茂っているのでは、怖い獣が住んでいても不思議は無い。歩くほどに不安は増し、そのうち、近くの渡殿に灯してあった火までがふっと消えた。
「あ……」
足元がもうほとんど見えない。庭には池や小川も流れているというのに、頼りは月明かりだけになってしまった。心細さのあまり涙がこみ上げそうになったが、椿は慌てて振り払った。
(絶対、隆文に会うんだから……)
そう決心して歩を進めたが、歩けば歩くほど、自信は無くなっていく。本当に自分は北の対へ近づいているのだろうか? 途方にくれているうち、
「あ……っ」
苔むした岩に足をとられて、つまづいた。派手に転んで、砂利の上に倒れこむ。とっさに突き出した両の手は擦りむけ、膝も破けてしまったようだった。
「いったぁ……」
痛いし、暗いし、心細いし。酷く悲しくなって、とうとう泣き声をあげてしまいそうになった、その時。
「姫!」
会いたくってたまらなかった人の、声がした。驚いて顔を上げようとしたときにはもう、ふうわりと抱き上げられ、腕の中に包まれていた。
「何をしているのです……!」
隆文ははぁはぁと忙しなく息を切らしていた。ぎゅうっと強く抱きしめられて、椿は驚いてもがく。
「安芸が……姫の姿が見えない、私の部屋へ向かったはずだと言って……どれほど心配したと思います!?」
ぱっと隆文の胸から引き離され、持ち上げられたまま視線を合わされる。乏しい明かりでも分かるほど、隆文はとても怖い目をしていた。
「だ、だって……あ、あたくし……会いたくって……」
「だからと言って、わざわざ家人の部屋を訪ねる姫君がどこにおられますか! ご用があるなら呼んで下さればいいのです!」
「……だって」
ただ、顔が見たい、遊びたいなどという理由で、いつも疲れているという隆文を呼び出すのは、心苦しかったのだ。何も言えず、椿はぐっと唇を噛んだ。
「とにかく、戻りますよ! 姫の姿が無いのが分かれば、大騒ぎになる」
隆文は椿を横抱きに抱えなおすと、早足に歩き始めた。
「た、隆文……」
怖い顔をしたままの隆文を見上げ、恐る恐る声をかける。
「なんです」
「……お、怒らないで……」
「怒りますよ」
冷たい声で言われて、椿は堪えていた涙をとうとうぼろりと零してしまった。酷く悲しかった。……ただ会いたかった、だけなのに。
「……っ、ひっく……」
「姫?」
椿がぼろぼろと涙を零しているのを見て、隆文は足を止めた。
「だって……会いたかったの……」
「……姫」
「ごめんなさい……怒らないで」
「……」
隆文は小さなため息をついて、とんとん、とあやす様に椿の背を叩いた。
「姫……。私はいつでも、姫のお呼びとあらば駆けつけます。どんな些細な用事でも。……ですから、こんな危険な事は二度となさらないこと。……お約束して頂けますか?」
「……」
椿はうつむいたまま隆文の直衣をぎゅっと握り締めて、こっくりとうなずいた。
「それでは」
隆文は首をかしげるようにして、椿の顔を覗き込んだ。
「もう、怒りませんよ」
そこにあったのは、優しい、笑顔。
「……っ、……たか……」
隆文の笑顔を見た瞬間、椿は胸に熱いものが込み上げて、押さえが効かなくなった。
「ふあ……あぁぁーーんっ!」
隆文が困るのも構わず、声を上げて、大泣きした。
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