五十.
その日のうちに、父は文を携えて、椿の元へ戻ってきた。見覚えのある薄紫は……左兵衛佐が好んでおくって寄越す、料紙だった。
「いやぁ、良かった」
父の様子は嬉しげで、目にはうっすらと込み上げるものすらあるようだ。
「もう、安心して良いよ、椿」
そわそわと取り出した文を床へ起き、円座に腰を下ろすのものどかしそうにそれをずいっと差し出した。
「お前が髪を切ってしまった事は、主上も春宮も世間に漏れないようにお気を使ってくださっているし、この私が睨みを利かせて置けば噂にもなるまい。咎めることも無いと主上直々におっしゃられているし、春宮も元々は乗り気では無かったのだから、それほど恨まれる事もないだろう。……もちろん、病で入内を辞退した事になるお前が、直ぐに結婚などとはいかんし、何しろいま少し髪が伸びん事にはお前も嫌だろう。そこは、ほとぼりが冷めて、髪もある程度伸びた頃に、なるべく慎ましやかに行えば良い」
「あの……」
椿は差し出された文に手を伸ばすのも忘れて父の顔を凝視した。
「一度は入内話をすすめた姫だ、他に婿の来てなど無いよ。お互いに想いあっているのなら、お前にもこれ以上の良い話はないだろう」
父の言わんとしている事を察して、椿はごくりと喉を鳴らした。
「お前は本当に良い公達を見つけたのかも知れん。己が身の不利をも省みず、ああも一途に、お前の身を案じているのだから。ああ、もちろんこの父は彼が不利になどならんよう手は尽くすつもりでいるよ」
「……」
くらくらとめまいが起きる。また、自分の身の上がするすると波にさらわれる様な、嫌な感覚。
「父上!」
庇近くに控えていた兄が、見かねたのか声を挟んだ。
「そう一気に言っても、椿には何が何だか分からないでしょう」
「何を言う、高成。椿をお前と一緒にするんじゃないよ、なぁ、椿」
満面の笑みを浮かべる父。そこに悪意は無い。
それこそ胸が潰れるほどに悩み、自分の身を心配してくれた上での厚意なのだ。
「……いいえ、あの……申し訳ありませんけど、兄上……ご説明を……」
兄はうなずくと、ずっと側近くまで寄って事の次第を語り始めた。
権大納言家を訪れた右大臣に、椿との仲を問われると、左兵衛佐はあっさりとそれを認めたと言う。
「右大臣殿のお腹立ちはごもっともの事。主上も春宮も、姫君を……ひいては右大臣殿の身を案じての事でしょうが、俺を責めようとはなさいません。しかし右大臣殿がお咎めになるのであれば、俺はどのような罰でも甘んじて受けましょう」
きっぱりとそう言いい、床に手をついてひれ伏した。
「おお……では主上も春宮もそなたと姫の事は、既にご存知だというのかね。知っていて、お許しになっていると」
右大臣の問いに、左兵衛佐はうなづく。
「はっきりとはおっしゃいませんが……おそらくは」
「美季!? おまえ」
驚いた兄はひざまずいて左兵衛佐の肩を掴み、詰め寄った。
「高成……全てはこういう事だったのだ。お前にも、寝耳に水な話だろうが……。……良いだろう……?」
最後のほうはまるで一人呟いているかのような声で、やっと兄の耳に届いた。
「おまえ……」
兄は今までずっと、椿の様子を見てきたのだ。腑に落ちないまま左兵衛佐を見つめていると、右大臣はぽんと手を打った。
「なるほど、良くわかった! では左兵衛佐殿、そなたはまだうちの三の姫に文をおくってやる気があるかね? 一度は入内までしようとした姫だ。よからぬ噂を立てられるやもしれんし、春宮はお許しになっているご様子とはいえ、後々まで禍根が残るかもしれぬ。それでも姫を、大事に思ってくれるかね」
「それは……右大臣殿のお許しさえ頂けるのであれば、もちろんです……!」
左兵衛佐は直ぐにも文の用意を始め、そして直接その文を、右大臣に手渡したのだった。
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