五十一.
椿はようやくその文に手を伸ばし、震える指で、開いた。
――忍ぶれば 苦しきものを 人知れず 思ふてふこと 誰にかたらむ
(人にも言えず、耐え忍んでいる苦しい恋を、誰に語ればよいでしょう)
今頃貴女はひとりで、耐え忍んでいることでしょう。それならばどうか、この俺に、語ってください。貴女のお気持ちは重々承知の上です。その苦しみを分かち合いたいと、思っています。今はただ、それだけでも良いのです。ずるい男だとお思いでしょうが、どうか、側に添う事をお許しください。それが俺にとっても、貴女にとってもきっと幸福への近道だと信じています。 左兵衛佐 美季
見覚えのある、実直な文字。
『貴女の恋は……不幸を生みます』
彼の言葉が思い出される。あの時、怒るでもさげすむでもなく、ただ悲しげにそう言った。おそらく彼の言うとおり、この偽りは、椿にとっても最良の、偽りなのだ。
……しかし。
「嘘ですわ」
「え」
右大臣は聞き取れなかったかのように聞き返した。
「左兵衛佐様のおっしゃった事は、全て嘘です。左兵衛佐様は、あたくしの事を庇ってくださっているだけですわ! あたくし、文を貰った事はあっても、返事を返した事など一度もありませんわ。父上さまのお言いつけどおり、一度も……!」
「……」
右大臣はきょとんとして椿を見ている。
「……な、何を……。いいんだよ、もう、誰も責められる事もない。何も気を使わずとも……」
胸が、苦しかった。
左兵衛佐の偽りに乗るのが正しい選択なのかもしれない。しかしもう、これ以上嘘を重ねるのが苦しい。きっとまた、春宮を傷つけたように、父も左兵衛佐も傷つける。……何より椿の胸に込み上げる想いが大きすぎて、とても、こんな嘘など。
「いいえ……! 違います! あたくしは……」
ずっと抑えつけてきた想いが、もう苦しくて、抑えきれない。
「椿!」
兄の慌てる声が、聞こえた。
「あたくしは……ずっと……。……隆文を……」
側に控えていた安芸が、はっと椿の袖を掴んだ。
「何だって?」
「……隆文の、事を……」
「……」
しん、と静まり返った。袖を掴む安芸の手が、ぶるぶると震えているのが、椿の視界の端に映る。
「……馬、鹿なことを……。隆文がどうしたというのだ。隆文は兄のようなものだろう!? 大体、あれは我家の家司ではないか。……な、何を突然言い出すかと思えば……」
父は笑おうとしたのか、顔を半分、ひきつらせた。椿はうなだれて首を振った。
「……父上……ごめんなさい、もう、耐えられません。あたくしは……どなたとも結婚なんてできません……。……た、隆文の事が、好きだから……」
「……っ」
右大臣の顔色が見る見るうちに朱に染まった。これほど険しい表情をした父親を見るのは、椿は初めての事だ。
「安芸! 隆文を呼んで来なさい!」
普段は温厚な父・右大臣のあまりの剣幕に、安芸は椿の袖を掴んだままただ震えていて、立ち上がる事も出来ない。
「何をしている、早く行かんか!」
「は、はい……っ」
やっと立ち上がると、安芸はよろめきながら部屋を出ていった。兄が真っ青な顔で父の様子を伺った。
「あ、あの、父上。……お、落ち着いて」
「お前は知っていたのか!? 高成!」
「え、あの、僕は、……その……知ってはいませんが、なんとなくそうかなと思うところも……」
「ええい、はっきりせぬ奴め! そんな事だからお前は出世も覚つかぬのだ!」
「……」
とんだとばっちりを受けてしまった兄はそのまま口を閉ざした。
「……左兵衛佐であればまだしも……、よもや、このような……っ」
「……っ」
椿はうな垂れた。
また自分の身勝手で、皆に迷惑を掛けるのだ。……愛する人にさえ。『貴女の恋は、不幸を生みます』と、その言葉が再び脳裏に蘇る。
(本当に。……この恋はなんて罪深いの……!)
安芸が隆文を連れて戻ってくる、慌しい衣擦れの音がもうそこまで近づいていた。
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