五十二.
「隆文……!」
姿を現した隆文はまっすぐに父右大臣の正面まで来て、ひざまずいた。顔色は青ざめているものの、いつもの優雅な物腰のまま、ゆっくりと手を突き、頭を垂れる。
「……申し訳も、ございません」
「お前……何も言い訳も無いのか! 認めるという事か!? 主家の姫に……春宮へ差し上げる姫に、手をつけたと……っ」
父は怒りのためぶるぶると震えている。椿は慌てて叫んだ。
「父上さま! あたくしたちはそのような関係ではありませんわ……っ、ただ、好きなだけ、あたくしが隆文を好きなだけです! 隆文は何にも悪くないのよ……っ」
「お前は黙っていなさい!」
父は椿の方を見ずに、ただ隆文を見下ろしている。
「……姫君のおっしゃるとおり、手をつけたなどと言う事は誓ってありません。……ただ……」
隆文は伏した姿勢のまま、きっぱりと言った。
「身の程もわきまえず、私が……姫に懸想していたのも、事実です。……許される事では無いと、存じております。どうぞ、御裁断を」
「隆文……っ」
椿は涙が込み上げるのを抑えられなかった。ぼろぼろと零れて、隆文の姿が滲んで見えない。
「父上さま、ごめんなさい、ごめんなさい、隆文を怒らないで……!」
嗚咽の交じった声で叫んで、椿は夢中で父の裾に取りすがった。
「……っ、お前達……」
父は唸る様に言って、二人を見下ろしていた。
皆が沈黙して、椿と安芸の嗚咽だけが室内に響き、しばらく。
右大臣がやっと、口を開いた。
「隆文。……お前には暇(いとま)をやる。この邸には二度と、姿を見せるな」
「父上さま!」
ばっと椿は顔を上げて、隆文を見る。隆文は姿勢も崩していなかった。
「畏みまして」
そう言うと、もう一度深く頭を床に擦り付けるように沈めてから立ち上がり、直ぐに踵を返した。
「隆文……っ」
一瞬だけ、その動きがとまる。しかしそのまま振り返らず、隆文は出て行った。
「あぁ……」
椿は床に手をついた。
「安芸、お前も」
びくりと、安芸が震えるのが分かる。
「この邸に居たいのなら、隆文と縁を切りなさい。二度と隆文とは文も交わさぬと、約束しなさい。……出来ないならば、今後この邸に勤める事は、許さん」
「……!」
安芸は庇近くに立ち尽くしたまま、身動きも出来ずにいる。
「父上さま、そんな、安芸には、たった一人の兄だわ! そんな」
「明日まで、待つ。……選びなさい」
それだけ言うと、父右大臣は、部屋を出て行ってしまった。
取り残された椿はよろよろと立ち上がって、安芸の元へ向かった。震えている手を握り締めて、そのまま何も言えずに押し黙る。
「あの……椿?」
それまでただ黙って座っていた兄が、立ち上がって声をかけてきた。
「だ、大丈夫……? その……僕、出来る事なら、何でもするから……」
椿はうなずいた。
「ありがと……兄上」
この兄に何かできるとも思えなかったが、もう椿には、他に誰も縋れる人はいないのだ。安芸さえも、もう……お別れなのかもしれない。
安芸はただ、無言で泣き続けていた。
<もどる|もくじ|すすむ>