五十三.



 隆文と引き離され、出家する事も許されず、ただ肩身狭く邸の奥深くに引き篭もって、いたづらに月日は流れた。実の兄との縁を切ってまで安芸が邸に残ってくれたことと、隆文に教えて貰った琵琶だけが、椿の救い。

(これ以上を望んでは、ばちが当たるわ……)

 隆文は右大臣家との縁は切れたものの、変わらず六位の蔵人として出仕をしているらしい。蔵人の頭にも気に入られ、帝の御覚えもめでたく、他の皆様にも一目置かれている様子だと、兄に教えて貰った。

(本当に良かった……)

 美しい琵琶の音色を響かせながら、木の葉の舞い散る庭を眺める。これ以上を望む事など無いと思っているのに、それでも無意識のうちに、ため息は零れる。

「姫さま、高成さまがいらっしゃいますわ」

「まぁ」

 椿は声を弾ませた。あんな事があるまでは、それほどこちらへ姿を見せる事も無かった兄だが、いまでは妹を不憫に思うのか、頻繁にやってきては宮中の事や世の中の事を教えてくれる。代わりに、父右大臣の足はめっきり遠のいてしまっているのだけれど。

「やぁ、椿。ごきげんよう」

「兄上、訪ねてくださってありがとう」

 御簾をあげて内へ招き入れる。几帳を隔てた向こうに兄はちょこんと座った。

「今日は、春宮の一の姫宮様の、五十日(いか)のお祝いがあったんだよ」

「まぁ……もうそんなに経つのね」

 桜の君……宣耀殿女御は夏ごろに姫宮をお産みになり、春宮は目に入れても痛くないほど可愛がっているという。また、桜の君との睦まじさも以前にも増してそれは眩しいほどだとか。

「うん、春宮ももうあれからほとんど宣耀殿に住んでらっしゃるようで、……こう言っちゃなんだけど、お前は入内しなくて本当に良かったんじゃないかな」

「……そうね」

「姉上にも男皇子が産まれたことだし、もう少し皇子の成長を待ってから、春宮は位をお譲りになるおつもりらしいよ」

「まぁ……」

 弘徽殿の姉はつい先日、この実家で男皇子をお産みになった。髪の短い椿の姿では、とても目通りも出来ず、姉も直ぐに帝に召されて、皇子を連れて内裏に戻ってしまったので、椿は見ていないのだが、それは美しい皇子だとか。

 一時は椿の身勝手のせいでどうなることかと思われた右大臣家だったが、ついに春宮を出すとなれば、その権勢はゆるぎないものとなるだろう。

「父上さまも、お喜びでしょうね」

「そりゃもう」

 父は最近、こちらに姿を見せない。孫にあたる皇子が生まれたこともあって忙しい事もあろうが、やはり……椿の不祥事を、許してはいないのだろう。

「お姉さまは、ご立派だわ。……このまま行けば、中宮にもおなりあそばすわね」

「そうだろうねぇ。僕も嬉しいよ。僕なんかたいして役にも立ってないけど、おかげで来年は出世しそうだ」

「まぁ」

 あはは、と無邪気に笑う兄に合わせて、椿も微笑んだ。



 その夜、椿は寝付けずに何度も寝返りして、そのうち身を起こした。

 ふと格子を上げてみれば、明るい月が高く昇っている。秋の夜風は涼しくて、鈴虫の声も風情があった。そっと、ため息をつく。

「……月見れば ちぢにものこそ 哀しけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねど……」

(月を見ていると、さまざまな事が物哀しく思いおこされる。私だけの秋ではないけれど……)

 ふと、口をついて出た歌。その歌に、応える声があった。

「水底の 玉さへさやに 見つべくも 照る月夜かも 夜の更けゆけば」

(水底に沈んだ玉さえ透けて見えそうなほど、輝くばかりの月夜だ。夜が更ければ、更けるほどに)

「……っ!」

 応える者など無いと信じていた椿はざっと冷や汗をかいた。まして声は男のものだったのだ。

(なんてこと。一体誰が……こんな、歌を詠み交わしてしまうなんて……!)

 椿は慌てて格子をおろし、妻戸(つまど)のほうに視線を向けた。

(掛け金は……!)

 掛け金が降りているのは確認したが、心臓がどくどくと動悸を刻み、手に脂汗が滲んだ。

(ああ……人を呼んだほうがいいかしら……!)

 そのうち、簀子(すのこ:廊下)に人の立つ気配がした。

「三の姫。……お久しぶりです。訪ねよう訪ねようと思って、随分、遅くなっちまったが……貴女に、一言言っておきたくて」

 声に聞き覚えがあった。

「御所を抜けるのも苦労したんだ。決して無茶な事はしない……入れてくれないか」

(なぜ。こんなところに……)

 血の気が引く思いがして、ふらふらと床に手をつく。

「早く! 人に見咎められる訳にはいかないんだ」

 逆らいようもなく、椿は掛け金を外した。戸板が引かれ、そこに姿を現したのは。

「春宮……!」



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