五十四.



「どうして、このようなところに……っ」

 春宮はするりと室内に滑り込み、後ろ手で素早く妻戸を閉めた。格子の隙間から差し込む線のような月明かりが、お互いの姿を照らしている。

 春宮は、怒っている様子も焦っている様子もなく落ち着いて、口元には微かに笑みさえ浮かべている。月の明かりにかたどられたその姿はただ……美しかった。

「美しいな、相変わらず」

「えっ」

 一瞬、思っていた事を言い当てられたのかと、ぎくりとして身をすくめる。春宮はゆったりと腰を下ろした。

「その髪は……本当にもったいない事をしてしまった」

 胸の辺りでぶつりと途切れた髪。椿はいたたまれず顔を背け、袖で顔を隠した。隔てるものも何も無く、扇すら持っていない。

「あの……な、なぜ、こちらに」

「……蔵人の……隆文の事だ」

 重い声。椿ははっとして春宮を凝視した。隆文は表立って何もとがめられてはいないはず。しかし春宮はやはりまだ、隆文を許してはいないのだろうか。

「綾音に……桜の君に、全部、聞いた」

 すぅっと、血の気が引く。

「言いたくないって、散々泣かれたんだけどさ。それでもどうしても放っておけなくて、無理やり聞き出したんだ。……それで俺は」

 春宮の手がぎゅっと握られた。

「許せなくてさ。……本当はもう、あいつを問い詰めるつもりなんか無かったんだけど、やっぱり許せなくて、あいつを呼び出して、確かめた。……あいつ、全部、認めたよ」

「あ……」

 絶望が、津波のように押し寄せる。春宮の寵妃を落としいれ、寝所に押し入り、あまつさえ脅しをかけたなどと、それは恐ろしい罪が、春宮の知るところとなってしまった……!

 椿はがくがくと身体が震えだすのを感じながら、ひれ伏した。

「……お、お許し、くださいませ……。……どうか……どうか」

 許されるはずも無い大罪。しかし椿には他にどうする術もない。この上はもう春宮の情けに縋るしか方法がなかった。

「お怒りは……ごもっともですわ……。とても許されるはずも無い罪と……分かりますわ。……でも、どうか、お願いいたします。……あたくしを想うあまりの事だったのです。どうか、あたくしの事は、あたくしはどうなっても構いませんから……隆文の、ことは」

「……本当に」

 春宮がふうっと息をつく。

「許せないと、思った」

「……っ」

「だけど……だけど俺は、ほんの一瞬だけ、貴女に惹かれた。あいつの思惑通りに」

 椿は思っても見ない春宮の発言に驚いて、ひれ伏した姿勢のまま目を見開いた。

「だから、許す。……貴女に免じて」

「……」

 椿はふと、顔を上げた。春宮はまっすぐにこちらを見ていた。いつも怒ってばかりの印象だった表情が、優しげに椿を見下ろしている。

「あ……」

「貴女がそうまでして庇うのだから、許すよ」

「あ……、ありがとう……ございます……」

「ああ」

 春宮はすっと立ち上がった。身動きすると、春を思わせる香りが辺りに漂う。

「それだけ。本当はもっと早くに言ってやりたかったんだけど、なかなかこっちも気軽に動ける身でもないし……立て込んでてさ。……子供も生まれたし」

 そう言うと春宮ははにかんだように笑った。……とても幸せそうに。

「姫宮様の事、おめでとうございます」

「うん。……だから実際、あいつの事なんかもうどうでも良いんだ」

「まあ」

 今度は悪戯っぽく笑う。こうして見ると、本当に春宮はただ美しく、あどけない少年のようだった。

「貴女も、幸せになれると良いな」

「もったいない仰せですわ」

「あいつ……来年には五位に上がるかもしれない」

「……え」

「兄上の声がかりとなれば、大臣も無視できないだろう」

「……」

 椿は呆然と春宮を見上げた。春宮はふっと微笑んで「それじゃ」と妻戸に手を掛けた。

「あ、そうだ。あいつのこと、殴っちまったけど、それは許してくれ」

「まぁ」

 春宮は笑いながら、今度こそ部屋を出て行った。椿は気配が消えるのを待って掛け金を下ろし、ほうっと胸を撫で下ろす。

(五位……)

 椿は春宮の言葉を思い返していた。

 そして、隆文に、薄桃色の文を貰ったときの事を。『来年には、五位になれるでしょう』と、そう、言っていた。

(いけないわ)

 椿は首を振った。都合の良い事ばかりを考えてしまう。

 椿に許されるのは、ただ隆文の無事を祈る事だけ。会いたいと願う事すら、罪だというのに。

 それでも逢いたいと思う気持ちは日増しに強く、ただひと目でもと願ってしまうのを、抑えるのは苦しかった。

 そしてまた、月日は流れる。



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